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ジャベリン - アズールレーン(アズレン)攻略 Wiki http://azurlane.wikiru.jp/index.php?%A5%B8%A5%E3%A5%D9%A5%EA%A5%F3

1943年




右手が痛い。そう思った。それなのに、なぜか痛いはずのその手の感覚がない。瞼は開いているのに視界は暗く、頭が重い。
「あ………」
 何か言おうとしたのに、喉から出てきたのは僅かな掠れ声だけだった。何もかもが硬く、冷たい。これは夢だと、ジャベリンはそう思おうとした。

 右腕がなかった。

 夢ではなかった。

 足も――右足もだ。太腿から下がない。右腕と右足の欠損。残っている左手には、手首からチューブが生えていた。その手を苦労して動かしながら顔に手をやると、鼻からもチューブが出ていて、寝台の下に接続されている。股からも。何もかもがおかしい。おかしいのに、ジャベリンは己の身体に起きたこの変化が事実であるということを知っている。

 1940年11月――ダイナモ作戦から半年が経過した冬の日、ロイヤル第七駆逐艦群から第五駆逐艦群に転属させられていたジャベリンは、鉄血の駆逐艦群と交戦した。そしてそこで、味方の量産型駆逐艦を敵の雷撃から守るために、己の雷撃を敵の雷撃にぶち当てようとした。それは半ばまで成功した。雷撃相殺で味方量産型駆逐艦の被害は軽微だった。

 雷撃のために接近していたジャベリンが代わりに大破をした。雷撃は爆発し、ジャベリンの身体を吹き飛ばしたのだ。

「おはよう」
 鼓膜を打ったのは、落ち着いた女の声だった。声のほうに視線を向けると、部屋の入口に女が立っていた。年の頃は二十代だろうか。若作りな三十代かもしれない。人目を惹くプラチナブロンドを伸ばした、ブルーの瞳の美女だった。額のところで髪を分けていて、整った目鼻立ちがよく見えるので、己の容姿に自信があるタイプなのだろう。ジャベリンが見たことがない女だった。

 見たことがないといえば、この部屋もそうだ。絨毯が敷かれた部屋の天井は高く、ジャベリンの寝ている寝台はそれまで寝てきたベッドとは比較しようがないほどに豪奢だった。広い窓から差し込む陽は優しく、テーブルの上に置かれたチェスボードを照らしている。風が吹けば木々が優しく囁くのだから、明らかに鎮守府ではない。というより、軍の施設であるはずがない。

「ここは………」
 言いかけたが、掠れ声は入り口にいる女に届いてくれない。だが音にならない声は、女を呼び寄せる効果があった。
「さる名家の持ち家だった家で、今はあなたが療養するための施設」
 と女は静かな調子で言った。名家の家。軍で産まれ、軍のための身体を捧げてきたジャベリンには、想像がつかない世界だ。
「あなたは……」
「あなたの世話役として雇われたの。マチルダと呼んでください」
 銀髪の女――マチルダは丁寧に礼をしてから「質問はそれだけでいいの?」という問いかけをしてきた。
 質問。

 わたしの、右足は、右腕は、心は、どこへ。

 そんなことは今さら問う必要もなかった。ジャベリンはこれ以前に一度、目を覚ましているのだ。そのときはこのような落ち着いた部屋ではなく、軍の施設であったが。その場所にはマチルダを名乗る女はおらず、代わりに軍の研究者たちがいた。そこでジャベリンは己の腕や足がどうにもならないことを知った。

 あのときは、そう、負傷後すぐだった。1940年の12月だ。だが、窓から流れ込んでくる麗らかな木漏れ日は冬のそれではなかった。
「今は……」
「1943年」
 用意しておいた回答なのだろう、マチルダはすぐさま答えた。
「あなたが負傷して一度目を覚ましてから、二年以上も寝ていたってことになるね」
 丸二年も寝ていた。左手で髪に触れれば、過ぎ去った年月を示すように髪は長くなっていた。腰に届くほどだろうか。しかし不思議と毛先は乱れておらず、脂ぎってもいないのは、世話役だというマチルダが手入れをしてくれていたからなのだろう。

 長すぎる休眠の年月は、人間ではなかなかありえないことだろうが、矮型戦艦ならありえないことではない。メンタルキューブが休眠状態に入れば、機能も休眠に入る。その名通り、メンタルキューブは精神状態の反映だ。ジャベリンは、目覚めたくないと、そう思っていたということだ。当然だろう。負傷から2年以上も経っているのに、右腕も右足もないままだ。ずっと、こうだ。変わらない。そういうものだ。

「あなたは、公式にはいちおう復帰したことにはなっているよ。味方の駆逐艦を庇って魚雷を受けた矮型駆逐艦が、見事に復帰して、去年――1942年からは地中海方面の作戦に出ていることになっている。実際はここにいるのだから、ほかのどこを捜してもあなたは見つからないわけだけど。
 軍はね、矮型戦艦のうまい使い方を知ったわけだよ。つまり、無尽蔵にコストを食う矮型は実際に動かす必要なんてなくて、その名さえあれば士気を高めるのには十分だって。一度でも一定期間活躍した矮型なら写真資料はあるわけだし、その存在も認知されているからね」
 マチルダの説明に驚きはなかった。実際のところ、ジャベリンを戦わせることで挙げられる戦果は局所的なものなのだ。それなのにいちいち資源を利用して戦わせることはない。
 
 マチルダは傷の様子や口の中を確かめ、眼球に光を当てて反射を診たりしたあと、ジャベリンの鼻に入っていたチューブを抜くと言った。
「胃液を吸い上げるチューブだね。ちょっと気持ち悪いけど、我慢して」
 チューブが引っ張られると、胃は気持ち悪く、食道をものを逆流する感覚があり、鼻の粘膜は削られて、その気持ち悪さは「ちょっと」どころではなかった。だが異物が取り除かれると、少しだけさっぱりした。
「体調は悪くはないみたいだね。まぁ、2年も寝ていたんだから、そうかな。点滴はまだつけておこうか。ご飯を食べられるようにもするけれど」

 ご飯を食べられるようにする。その言葉には現実感がなかった。食べるということは、生きるということだ。だが右腕と右足を失ったジャベリンは、これからどうやって生きればいい?
「あっ………」
 自分の瞳から熱いものが流れ出してきたとき、反射的にジャベリンは声をあげた。泣いたのは久しぶりだった。そうだ。前回目覚めたときは混乱で悲しむどころではなかったし、それ以前の戦いの中ではどれだけ辛い戦況でも涙を流したりはしなかった。涙を流すのは、生まれたばかりの頃の鎮守府で人間扱いされていなかったとき以来だ。

 泣けば優しくされる、などとは覆ったわけではない。実際、昔は泣いても相手を興奮させるだけだったので、ジャベリンは涙を流すことをやめたのだ。だがこの女性、世話役だというマチルダなら、きっと優しい言葉をかけるのだろいうという、そんな予測はあった。悲哀に暮れながらも、離れた場所で己を眺めている自己をジャベリンは意識していた。
「じゃあ、ご飯の用意をしてくるね」
 と、マチルダはしかし、ジャベリンに慰めの言葉ひとつかけずに踵を返して部屋を出ていってしまった。ひとり部屋に残されると、なぜだかもっと涙が溢れてきた。嗚咽も漏れた。あとからあとから次々と涙が溢れると、片腕だけでは抑えるのには足りなかった。


 どろりとした粥のような白いものと、どろりとしたスープのような白いものと、野菜をミキサーにかけて固めたようなどろりとした緑色のものと、コップがトレーの上に載せられている。寝台にはその上で食事を取れるように台が取り付けてあって、その上に乗せられているトレーなのだから、つまりはこれが食事なのだろう。まともそうなのはコップに入った水だけだ。
「いちおう言っておくけど、わたしが料理下手なわけではないからね」
 とマチルダが聞かれてもいないのに言い訳がましいことを言った。目覚めたばかりなので、身体に負担がかからない流動食ということだろう。

 腹が空いている感覚はないではなかった。だが、食欲はない。目の前のものが食物であると認識できていないからかもしれない。
「美味しくなさそうでも、食べてね。これが食べられるようにならないと、美味しいご飯なんて食べられないんだから」
 美味しいご飯。美味しいご飯とはなんだっただろうか、とジャベリンは思う。軍では甘味など食べる機会などなかったから、美味しいご飯を食べる楽しみなんてなかった――そこまで考えて、すぐに甘味のことを考えたということは、自分は甘いものが好きなのだろうか、と思った。

 食べる気力も食欲もなかったが、ジャベリンは言われるがままに匙を握ってどろりとした流動食――3種類あるが、どれでも同じだ――を掬い、口の中に放り込んだ。味がない。
「味が薄いのも、わたしが味付けを忘れたからだなんて思わないでね。起きてすぐだから、最初はそういうものなの」
 寝台の横の椅子に座っているマチルダが、いちいち説明する。ジャベリンは無視して、無機質に食事を口に含んだ。食べる理由はなかったが、目の前に出されたものを平らげるのは、なんとなく汚れている場所を掃除するような、奇妙な快感があるようにも思えた。

 だが1/3ほどを食べたところで匙は止まってしまった。

 食事がお腹を通らない。いや、喉のあたりで、つっかえたようになってしまう。食べ過ぎのように気持ち悪いということはなく、ただただ身体の中に栓ができたように、それ以上入っていかない。
「もう食べられないかな?」
 マチルダが首を傾げるのが、なぜか腹が立つ。腹が立っても、しかし食事は進まない。

 そのあとも頑張ったが、結局半分が精一杯だった。トレーの上の量は、日常的な食事に比べれば、半分以下の量だった。その半分しか食べられないのだ。ジャベリンは改めて、己の身体が弱り切っていることを理解した。もはや戦場には戻れない――いや、そんなこと、考えるまでもない。片足がなく、腕も欠けているのだから。それに、ジャベリンは戦場に戻りたいと思ったことなどない。

 食後に、排泄用に尿道から生えていたチューブを抜かれたが、地獄のような痛みだった。これを淡々と抜くのだから、マチルダという女は信じられない。下半身におむつを穿かされていて、それはある程度歩き回れるようになるまではこのままだ、と無茶苦茶なことを言われた。マチルダは、片足がないジャベリンが歩き回れるようになることを期待しているらしい。
「義足ならあるよ」
 そう言って、マチルダはジャベリンの右足に木製の義足を取り付ける。不恰好なそれは、当たり前だがジャベリンの思い通りに動かすことはできないし、感覚もない。重量のバランスも違う。ただ棒があるだけだ。こんなので、歩き回れるようになるはずがない。

「そんなこと言っても、人並みに生活できるようにしてくれって言われているんだから。さぁさ、立って。最初は大変だろうけど、最初の一歩がないと何も始まらないんだからね」
「厭」 
 ジャベリンは拒絶した。
「厭。厭です。もう何もしたくない」
「どうして?」
「怖いからです。戦うのは厭です。死ぬのも厭です。何もしたくないです」
「それで?」
「だから、何もしたくないです」
「それは楽しいの?」
 マチルダは頬に手を当て、たおやかに首を傾げた。そんな疑問は知らない。楽しい、楽しくないで行動なんてしたくない。ずっと命令されてきて、厭なことをさせられてきて、やりたくないことばかりさせられてきて、それで、それで楽しいも何もない。

「それは、嘘でしょう?」
 マチルダは静かな調子で言った。
「ずっと前の鎮守府のことは知らないけれど、少なくとも1940年までいた鎮守府の頃は違うでしょう? あなたが命令に従わなかったことは何度もあったし、それを指揮官に指摘されたこともあったでしょう。駆逐艦の迎撃を命令されて爆撃機を倒しに行ったり、先行して攻撃を仕掛けたり……」
 そうだ。
 それは、そうだ。この怪我を負った理由もそうだった。雷撃に対して雷撃をぶつけようとするだなんてことを命令されたりはしない。

「あなたはやりたいことをやってきた。命令になんて従ってはこなかった」
「それは、戦果を上げれば立場が悪くならないからで………」
「指揮官に従って命令を聞いたほうが、叱られもしなかったし、立場が悪くなったりはしなかったでしょう。あなたは英雄気取りで前に出ていただけ。それを叱咤されながら、改めなかったのがあなた」
 マチルダの言葉はいちいちジャベリンに突き刺さった。その結果が、この身体だ。そう思うと、やるせなくなる。

「さぁ、立って。練習しよう」
 暗澹とした気分のまま、無理矢理引き起こされ、立たされるが、足が震える。落ち着かないのは木製の義足のほうではなく、むしろ生身の左足のほうだった。筋力の衰えが酷いのだ。
「腰を掴んで……いや、肩のほうがいいかな? 届くよね? そう、円舞曲ワルツを踊るように………
 言われた通りに、マチルダの右肩に左腕を伸ばす。右腕が残っていて腰に手をやれれば、確かに円舞曲のような形になっていたかもしれない――ここまで不恰好なダンスもそうそうはないだろうが。

 それからは、毎日円舞曲を踊る日々だった。朝になるとマチルダに起こされ、朝食を摂り、踊るように歩く練習をし、昼食を摂り、まだ踊り、休憩して本を読んだり、窓の外を眺めたりして、夕餉を摂り、眠った。そのうちにマチルダに縋らずに歩けるようになり、歩ける範囲は徐々に広がっていき、数日のうちに部屋を出て、家の中じゅうを歩き回れるようになった。どうやらこの家はジャベリンの寝室がもっとも大きな部屋で、しかも豪華らしかった。他の部屋は、ほとんど家具らしい家具がない。唯一の例外はマチルダが暮らしている部屋だったが、こちらも寝台や棚は安っぽく見える。

 ただ歩く。義足でそれをなすためには多大な努力が必要だったが、そのために身体を動かし続けていると、しぜんと心の中の暗澹たる気分は消えていくような気がした。もちろんそれは気のせいで、寝る前に布団に入ってみると、失った手足のことが思い出され、泣くこともあった。それでも、ジャベリンは歩く努力を続けた。

 外に出られるようになると、春の空気を肌で感じられるようになった。風が吹くと少し肌寒さはないではなかったが、髪をくすぐられると心地良い。外に出ると今まで暮らしていた家を眺めることができた。ロイヤル式の古い建築は郊外にある静かな森の中にあり、木々の中を散歩することには事欠かなかった。歩いていると、ときたま野兎が灌木の裏から飛び出してくることもあった。

 毎日言い訳をしていた通り、マチルダの料理は下手ではなかった。ジャベリンの身体が回復し、まともな食事が摂れるようになると、様々な料理を作ってくれた。ただ見たことがない料理が時たま出てきて、たとえば牛乳の香りのする白いクリームスープだ。これはなんだと聞くと「クラムチャウダー」という謎の返答が返ってきた。聞けばユニオンの料理らしい。
「あなたはユニオンの人なんですか?」
「そうだけど……美味しくなかった? ロイヤルの味付けはよくわからなくて………」
 不味いなんてことはない。軍での食事しかしてこなかったジャベリンからすれば、むしろ頬が落ちそうになるほど美味かった。

 気づけば、ジャベリンが目覚めてから三ヶ月が経っていた。夏の日差しが森の中も照らすようになったある朝、いつもより早く起きたジャベリンが散歩のために家の外に出ると、マチルダが家の前の木のベンチに座っていた。驚いたのは、彼女の腕に巨大な猛禽類がとまっていたことだった。襲われているのかと思った。
「おはよう、ジャベリン」
「お、おはよう……あの、その鷹は?」
「鷹じゃなくて鷲だよ、いーぐるちゃんは。白頭鷲ハクトウワシっていうの」
 くすりと笑って、マチルダは鷹――ではなく鷲を空に放った。名前通り白い頭の巨大な猛禽類は、マチルダの周りをくるりと回ったあとで、木々の隙間を通って空へと飛び立ってしまった。

「あなたのペットですか?」
「うーん、ちょっと違うかな」とマチルダは小さく笑った。「ただ、なんか懐かれちゃっているから……いろいろと頼んでいるの。主にお手紙とかね。一緒に読んでいたところ」
「はぁ………」
 あんな巨大な鷲に懐かれるとは、得体の知れない女である。マチルダはベンチに座ったまま、鷲から受け取ったという手紙を眺めた。

「誰からですか?」
雇い主と、妹みたいな子と、あと、えっと……恋人、みたいな
 最後の言い方は煮え切らず、珍しく顔を赤くしているからには、マチルダには恋仲の男性がいるらしい。
「ジャベリン、ところで……わたしがいなくなったあと、あなたはどうするの?」
 気恥ずかしさを隠すようにマチルダは尋ねられて、ジャベリンは驚いた。マチルダがいなくなる? どういう意味だ――などと聞き返さずとも理解ができるのは、マチルダはあくまで雇われているだけであり、ジャベリンにとっては一切の繋がりのない人物だということだ。契約期間が切れればそこでお別れというわけだ。

「あなたには、いなくなって欲しくないです」
 ジャベリンが素直に答えると、マチルダは鈴を転がすように笑った。
「随分と素直になったこと………嬉しいね」
「あなたのことは好きですから」
「それはとても嬉しい。わたしもあなたのことが好きだよ、ジャベリン。契約期間はもうすぐ終わるけれど、延長の申し出も来ている。ただ、わたしもいつまでもここにいられるわけではないから、どうしようかな、と思って」
「延長……軍はそこまで手厚くわたしの面倒を見てくれているんですね」
「わたしを雇っているのは軍ではないよ。手足を失った矮型なんて、軍は世話をしたりはしない。矮型は人間じゃないから戦災保障も老後年金も気にしなくて良いし、人権だってないんだもの。そもそもあなたは地中海方面で戦っていることになっているんだから、同時に2箇所に存在するんじゃ、都合が悪いしね」
「じゃあ、誰が………」
「誰も思いつかない?」
 首を振ると、マチルダは溜め息を吐いた。
「あなたの指揮官だよ」
 ジャベリンは耳を疑った。

「私財を投げ打って、この家を買って、家具を買い揃えて、わたしのような家政婦を雇って、それで今は戦地にいる……もう指揮官じゃないけどね。彼は矮型に大きな被害を出してしまった。降格のうえ、転属だよ。戦地もかなり危険なところに飛ばされた」
 顔が四角い屈強な、あの中年男。命令違反をするたびにジャベリンを叱責し、時には平手で殴りつけた、あの男。それが、ジャベリンを助けてくれただと?
「家族にでもお金を使えば良かったのに………」
 もちろんジャベリンは、彼と私的な話をしたことなどほとんどない。ほとんどないということは、僅かながらあるということで、それは指揮官室での彼の机の上の写真を見たときだった。一度も見せたことがないような表情の若き指揮官とともに、女と小さな子どもが写っていた。妻と娘だと言っていたので、ジャベリンは「可愛いですね」なんて思ってもいないことを言ったものだ。

「あの人に家族なんていないよ? 独り身。昔は結婚していたとは言っていたけど、少なくとも今は、ね」
 マチルダの言葉に、ジャベリンは混乱した。ではどうしたのか。離婚か、死別か。あの男はそんなことは言ってはいなかった。いや、言うまでもないと思ったのか。ジャベリンと彼は、そんな関係だった――そんな関係だったのに、なぜ、ジャベリンの助けをしてくれるのか? 家を買ったり、人を雇うなど、指揮官の立場であった人間にとっても、安い買い物ではないはずだ。

「混乱しているところで悪いけれど、もうひとつ。あなたに手紙が届いているの……こっちはうぃーぐるちゃんが届けてくれたんじゃなくて、郵便屋さんの手紙ね」
 マチルダが差し出した手紙を受け取り、混乱した頭のままで封を開く。その中身は、さらにジャベリンを驚かせた。手紙の中身は、軍からの招聘令であった。曰く、来年の作戦において矮型が必要のため、軍に戻れ、という内容だった。なくなった手足については、技術開発による改装によって元に戻すことができるようになったのだという。
(元に………)
 信じられない話だった。

「いちおう言っておくけど、改装だとか修復は痛いよ。成功するとも限らないし」
 とマチルダが言ったので、ジャベリンは疑問を持った。
「なぜあなたは手紙の中身を知っているんですか?」
 手紙にはロイヤル軍部の蝋印がしてあって、開封されていなかったことを示している。彼女はベンチに座ったままで、立っていたジャベリンの手紙を読めるはずがない。
「知っているわけじゃなくて、軍からの手紙だからそれしかないな、って思って」

 いまいち意味がわからない。この女性は、どこまで軍の内部事情に詳しいのだ。
「あなたを呼び出して改装しようとしているのは、たぶんタングステン作戦のためだね。一昨年に就役した鉄血の戦艦でティルピッツというのがあるの。あなたが寝ている間に就役したビスマルク級の戦艦ね。それが、かなり強力らしくて……」
 忘れかけていたが、依然として鉄血や重桜との戦争は継続中だった。マチルダ曰く、ロイヤルは鉄血の〈野獣〉ことティルピッツを打破するため、あらゆる手段を行使しようとしているらしい。

「ティルピッツの脅威は人間魚雷の計画も進められているくらい。タングステン作戦は、このティルピッツに対する作戦ね。空母を結集させ、艦載機で北海にいるであろうティルピッツを叩き潰す、という力押しの作戦。あなたが呼び出されたのは、空母の護衛だろうね。短時間しか戦えないコストパフォーマンスの悪い戦艦でも、矮型がいるといないでは守れる範囲が全然違うから」
「あなたは……なんでそんなに詳しいのですか?」
「内部リークがあってね」
 マチルダは、それまで彼女が読んでいた手紙をジャベリンに渡した。汚れた紙に力強く綴られた文字は言っていた。タングステン作戦が計画されているということ、そのためにジャベリンが呼び出されようとしているということ、それを止めて欲しいということ、マチルダには継続してジャベリンの世話をしてほしいということ、金を送金するということ、そして、ジャベリンに人間らしい人生の楽しみを教えてほしいということ。挨拶や天気に関する話題はなく、用件だけを簡潔に書いたその手紙の差し出しは北海の基地からで、差出人はジャベリンの指揮官――今はそうではない――からだった。

「なんでこの人は、こんなにわたしに………」
「さてね。わたしには、わからない。人間には、わからないところがあるんだよ」
 マチルダの返答を聞いて、ジャベリンはしばらく考えた。人生の楽しみを教えて欲しい、だと。指揮官は手紙でそんなふうに綴っていた。マチルダのかつての質問を思い出す。「それは楽しいの?」だ。彼女は指揮官がかつてそう言っていたから、その質問を投げかけたのだ、と気付く。

「まぁ、まだあと数ヶ月くらいならここにいられるし――」
「わたし、改装を受けに行きます」
 ジャベリンがそう言うと、マチルダは目を瞬かせた。
「本気?」
「はい」
「戦いに行ったら、また怪我をするかもしれないよ」
「今度はできるだけ危ないことはしないようにします」
「どうして行くの?」
「わたし、わたし……人間になりたいです」
 マチルダは馬鹿にしたように笑った。

「意味がわからないな。きみは戦艦だ」
「でも、人間になりたいです。人間が何を考えているか、よくわからないんです。わかろうとしたいんです。ここにずっといたら、人間のことがわからなくなるから、だから、行かないと」
「行く場所の選択肢は、そこだけじゃないでしょ? それに、あなたの指揮官は、こっちで人間らしい暮らしをしてくれ、って言っていたんだよ」
「わたしはそんなの知りません。そんなのは人間のあの人の理屈です。まだわたしにはわかりません。だから、今は自分のことは自分で決めます。わたしは行きます。指揮官やあなたみたいな人間になりたいんです」
 
 何もかも、理屈が通っていない言葉だという自覚はあった。それでもジャベリンは、言いたいことを吐き出した。
「わたしが人間らしいって?」
 マチルダはじっとジャベリンの目を見つめ、言葉を反芻した。
「はい」
「それは嬉しいな」

 ジャベリンはひとつきりの手を差し出して、マチルダと握手をした。その日のうちに返答を書くと、2日後には軍からの迎えがやってきた。そしてジャベリンは、北海へと向かった。

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