小説ラスクロ『柿の種』/時代2/Turn4《創生水の儀式》


11-131C《創生水の儀式》
青き魔術に応え、水鏡が未来を映すとき……それは、新たな可能性を連れてくる。


 畳の上に寝っ転がるのが好きなのは、畳の匂いが好きだからではない。うつ伏せにして全身を畳の目に擦り付けると、ただ平たい床とは違って感触があるのが良い。木張りとは違う。さらに指先で畳の藺草いぐさを爪でなぞっていると、何時間でもこのままでいられるような気がしてくる。尺取り虫のようにうつ伏せのまま尻だけを上下させて這ったり、水練のように畳に掌を吸い付かせて移動したり、はたまた両手を縦に万歳した状態で左右に転がったりする。
「お嬢、そんなところで寝ないでください」
 声をかけたのは蒼眞勢の頭首の館で働く若い下男だった。
「暇だ」
「暇なら散歩でもしてきたらどうですか。良い天気ですよ」

 17年住んだ島を、いまさら散歩して何になるというのだ――そんな思いはないではなかったが、ミスルギは大人しく下男の言うとおりにした。外の風を受けて涼んでいたほうが、屋敷で小言を言われているよりもマシだからだ。
 砂利の上にほとんど等間隔で置かれた平たい飛び石の上を跳ね、林に包まれた屋敷の敷地を出る。ぽつりぽつりと家々の見える坂道を下れば港町に出て、登れば社に辿り着く。
 少し考えて、ミスルギは坂道を下る方向を選択した。港から島の外には出られないにしても、社へ行くよりは港で人の行き来を見たほうがまだ退屈が紛れる。両の手を袂に入れ、ミスルギは大股で坂を下りた。

 トポカ宮で行われた剣術大会から1週間。
 連絡を受けて駆けつけた父によって島に連れ戻されたミスルギの謹慎は、未だ続いていた。
 蒼眞勢の頭首である父に謹慎を解いてくれるように嘆願しようにも、彼は島を出ている。この蒼眞勢の諸島では頭首の命は絶対であり、であればミスルギがここを抜け出すためには父の怒りが解けるか、泳ぐか歩くかして海を渡るかしかない。どちらも試したことがないので、成功の可能性はわからない。
 ま、それはいいさ――だなんて軽く流せるほどにミスルギは老いてはいなかったが、かといってこの場で謹慎を解かれたとして、己がすぐさま都へまた飛び込んでいくかというと、そんなことはないような気がした。

 ミスルギは負けた。

 ああ、負けた。あいつだ。あの女だ。イズルハだとかいうあの女が、完膚なきまでにミスルギを叩きのめした――腹が立ったのはあの女はミスルギに怪我をさせなかったことだ。あの女は煙幕の中ですべての攻撃を避けるか逸し、ミスルギの手首を打って刀を落とさせ、それで勝利した。手首に加えられた一撃は速度に反して打った瞬間の重みは軽く、であれば打擲の刹那に刀を落とさせる程度のぎりぎりまで力を緩め、怪我をさせないようにしたということだ。実際、閃光のような鋭さがあったにも関わらず、骨が折れるどころか傷ひとつつかなかった。少し赤く腫れただけで、その腫れも湿布を貼っておいたら一日で引いた。
 勝てなかった。負けた。あんなに自信があったのに。あんな、あんな女に。試合で手加減するような女に。

 坂道の石を蹴ると、ころころとそのまま止まることなく坂を転がっていく。ミスルギはそれを追いかけた。
 自分は強いと思っていた。実際、強かった。鍛えた。十分に。そのはずだった。
 だがあの女はもっと強かった。速くて、鋭かった。油断していただとか、初戦の疲労が残っていただとか、はたまた予想外の動きだったとか、そんな次元ではなかった。
 あの女は怪物だ。
(おれはあの女には勝てないのか?)
 さらに鍛えたとして、それでも、ミスルギはあの女に勝つ己の想像ができなかった。
(一生、ぜったいに………勝てないのか?)
 何かを誇ることなど、できやしないのか――あの女がいる限りは。

 転がり続ける石が止まれば、既に港に辿り着いていた。桟橋が突き出しているだけの堤防の近くに渓流されているのはひとりふたりと乗るのが限界の小舟ばかりで、本土の大型船など見るべくもない寂れた港だ。海鳥が猫の鳴き声をあげながら海面すれすれに下りてきているので、魚の群れが港の近くにいるのかもしれない。
 普段なら働き盛りの漁師は海に出ているので、釣りをする老人か子ども程度しかいないはずの港のはずだったが、今日はやけに騒がしかった。桟橋の端で、人だかりができている。
「何があった」
 とミスルギはその人だかりに首を突っ込んだ。小さな群島の頭首の娘であれば立場は知られていて、顔も利く。自分の性質が人によっては好まれる一方で疎まれることも知ってはいたが、だからといって首を突っ込まずにいられるわけもなかった。でなくても、暇なのだ。

「お嬢………」と人だかりのうちのひとり――40過ぎの中年男は一瞬嬉しそうな表情になったが、すぐに落胆の色を見せた。「親方さまは?」
「親父はまだ帰ってないはずだが……なんだ、揉め事か」
「いや、そうではなくて……本土から召喚英雄が来るとかいう報せが………」
「召喚英雄?」
 ミスルギは首を傾げた。召喚英雄とは、珍しいことだ。五ヶ国に召喚されるその他世界の英雄をこの目で見たことはない。だがかつて同じ席に座したことがあるという父は、こう言っていた。
「召喚英雄にだけは気をつけろ。あれは化け物だ」
 後にも先にも、蒼眞勢の頭首である父があんな不安そうな表情をしたのを見たのはあのときだけだった。

(化け物ねぇ………)
 つい一週間ほどまえに化け物じみた剣術を振るう女と戦っただけ、ミスルギにはいまひとつ召喚英雄の恐ろしさというものがピンと来なかった。
「その召喚英雄とやらは、何をしに来るんだ?」
「見識を広めるためだとかなんとか、そういう話になっているそうですが………」
「観光ということか」
「いや、学者だそうで、何かの調査なのかもしれません」
「学者ねぇ………」
 剣客や武術家だったら良かったのだが、学者か。しかし召喚英雄なら、戦についても深い見識を持っているのかもしれない。

「で、議論になっていたのはなんなんだ? 財を使い果たしてでも島を上げて歓待しろとでも言われているのか?」
「いえ、その、案内の者をひとりつけてくれという話があったというだけなんですが、親方さまもいないので、断れるなら断ったほうが良いのではと思ったのですが………」
「なんだ、そんなことか。じゃあおれが案内する」
 そんな提案をすると、、と周囲の屈強な男たちから呻き声が漏れた。
「あの、お嬢……相手が召喚英雄だというのは……」
「それはさっき聞いた。失礼にはならんようにしろというのはわかっている。頭首の親父がいないなら娘が出迎えるしかあるまい。だいたい、召喚英雄のことなら青武帝からの命令だろう。もう出立しているはずだ。であればいまさら断るもないだろうに。それともあんたらが案内役をするのかい?」
 そう畳み掛けてしまえば、反対の声はもはや上がるはずもない。正論であると同時に、己らが召喚英雄の被害を受けない魅力的な提案だからだ。

 知らせが届いた翌日、その召喚英雄はイースラ軍の小型船でやってきた。
「きみが案内人かい?」
 桟橋に降り立った男は痩せた中年男だった。和装で帽子の下は七三に撫で付けてはいるが、油がてかるほどぴったりに、というわけでもない。口の上のカイゼル髭は、船旅と潮風のせいなのか少し曲がっていた。下がり眉の下の瞳は黒く、些か目尻は垂れ下がってはいる。
 学者というが、神経質そうには見えない。かといって武人のように鋭さがあるわけではなく、文官のような狡猾さが見えるわけでもなく、ではどう見えるかというと、ただのおっさんだ。ただ瞳だけは活き活きと輝いて見えるだけの。ミスルギは失望を抱えながら名乗った。
「ミスルギです」
「はじめまして」と召喚英雄の男はミスルギが差し出した手を握って言った。「《寺田寅彦》と申します」



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