小説ラスクロ『太陽の鴉』/時代2/Turn4《深淵の黒雷》


9-093R《深淵の黒雷》
死哭空峡でゼスタナス号を襲ったのは、レーテ周辺の時間と魔力の逆流が生む、悪夢のような空の大渦巻だった。

 傾いた甲板の上を《魔戦技の異端姫 シェネ》は駆けていた。縁に向けて。

 《魔導戦艦 ゼスタナス》号の遥か下方、眼下に聳え立つ岩山に立つ存在から発せられた魔力は大気を揺らすだけではなく、稲妻を呼び寄せた。
 ゼスタナス号は最新鋭の超弩級戦艦である。その仕様については目を通していたから、雷の一発程度が直撃しても運行に支障が無いことは知っている。
 だが、船が無事であるということと、乗組員が無事であることは別だ。特にそれが甲板の上なら。

 《魔導戦艦 ゼスタナス》号の魔力障壁に直撃した雷は、そのエネルギーを衝撃に変えて船を揺らした。そして傾いた甲板の上で、落ちていったのは皿と料理だけではなかった。

「無事か? ゼスター………」
 四つん這いになり、必死で甲板にしがみついていたシェネがゼスタールの名を呼ぼうとしたときには、既に彼の姿は無かった。

(落ちた――!?)
 そう認識した刹那、シェネの身体は自然に動いていたのだ。
 だからシェネは、縁から宙へと跳躍したのだ。

 が、跳躍した瞬間に見えたのは、鴉色の羽を持ち宙に浮く黒衣の女性と、それによってゼスタナス号の甲板の上へと運ばれようとしているゼスタールの姿だった。
「クロエ……」

 馬鹿、とシェネの友人であるクロエの口が呆れた表情を作るのが、落ちる直前に見えた。
 シェネは空中で必死にもがいたが、空気の抵抗はあまりに儚い。昔読んだ漫画だと、空中で手足をばたばたさせていると一秒や二秒くらいだったら浮いていられるものだったが、くそう、現実は厳しい。

「大丈夫」
 大丈夫、大丈夫。
「大丈夫! やればできる子! 大丈夫! 頑張れ、わたし!
 落下しながら、シェネは必死で己に言い聞かせていた。

 猫は高いところから落ちても大丈夫なのだ。姿勢はうつ伏せになるように回転できたし、落下速度も理解できている。衝撃を吸収して着地する準備も完璧だ。
 問題は、飛空艇が飛ぶような高度から着地した猫の前例はおそらく無いということだ。もしかすると、広い世の中だ、過去に一件くらいはあるかもしれないが、もしかするとその猫はもうこの世にはいないかもしれない。願わくば、その猫の死因が老衰であってほしい。

 必死な妄想を打ち破ったのは上方からの爆発音で、シェネは落ちながら視線を持ち上げた。
 しかし何が起きたのかは、わざわざ上を見なくても理解できた。船を固定するためのアンカーが目の前を通り過ぎていったのである。爆薬を用いて加速されたアンカーが、《魔導戦艦 ゼスタナス》から射出されたのだ。

 誰が発射してくれたのかは知らないが、この一瞬でシェネが落下したことに気付いてアンカーを射出してくれた船員には感謝してもしきれない。いや、もしかすると最初のゼスタールの落下に気付いての反応なのかもしれない。

 うつ伏せで空気抵抗を大きくしていたシェネよりも、重くて空気の抵抗を受け難い形状のアンカーのほうが何倍も速く地面に衝突した。
 錘に結びつけられた太い鎖の速度が落ちたことを確認する暇も無く、シェネは己の胴よりも太い鎖の上に着地した。鎖は撓み、上に乗った物体を弾き飛ばそうとする。シェネはその反発に逆らわず、鎖の上で何度も跳ねながら、転がり落ちるようにして徐々に速度を落とし、最後にはアンカーの落着地点に着地した。

「あ、危なかっ………」
 危なかった、とまで言い切る前に、シェネはまだ脅威が過ぎ去っていないことに気付いた。船を揺らしたのは飛行艇の真下の岩山にいた黒い男で、彼がいたのはシェネが落ちた地点のすぐ近くだ。
 いや、目の前だ。

 シェネは見た。
 衣服は身に纏っておらず、膚を隠すのは黒い刺青長髪だけだ。その刺青で誤摩化してはいたが、髪の間から見える表情は意外なほど若かった。もしかすると、ゼスタールと同じくらいかもしれない。
 若かろうと老いていようと、筋骨隆々とした体格には威圧感があった。オセロテゆえ小柄なシェネからすればなおさらで、見上げるほどだった。

 ゆえにシェネは、動けなかった。その手が、射竦める蛇が舌を伸ばすように、にゅうと伸ばされても。
 手が首に触れる刹那、黒い男の姿に白い陽が差し込んだ。
 いや、長い銀髪が翻ったのだ。

「シェネ、下がって!」

 じぃと刺青の男を注視していたせいで、目の前で起きた状況が把握しきれていない。が、おそらくはシェネを追ってアンカーの鎖を駆け下りてきたゼスタールが、殆ど落ちるような勢いで、目の前の刺青男の腕に剣を叩き付けたことだけはわかった。
 それなのに。
(この男……、鉄で出来ているのか!?)

 刃を叩き付けられたはずなのに、男の黒い腕には傷ひとつなく、むしろゼスタールの剣のほうが刃こぼれしているくらいだった。
 いや、こんな場所にいるくらいだ、この男はおそらく召喚英雄なのだ。ならば何が起きても不思議ではないし、どんな化け物でもおかしくはない。

 相手は全裸で何も武器は持っていない。
 対してこちらはシェネとゼスタールのふたりで、武器を持っている。さらにゼスタールを追ってきたのか、黒塗りのナイフを両手に携えた《沈黙の黒牙 ザ・ジ》フライパンとお玉を手にした《獄炎の料理人 ウォン・ガ》も鎖を伝って降りてきて——いや、あんたは何をしに来たのだ。

 兎も角として、数と武器の上では明らかにこちらのほうが有利だ。だが相手は召喚英雄だ。何が起きても不思議ではない。
 戦うのではなく、逃げる手立てを考えなければ――そんなふうに画策するシェネの目の前で、入れ墨の男は背を向けるやいなや、岩山を飛び降りてしまった。

(嘘………!?)

 逃げた?
 いや、そんなはずがない。いくら人数が多くても、相手は召喚英雄だ。
 だが岸壁から身を乗り出して確認してみても、眼下には雲層が広がるばかりで、もはやあの男の姿は見えない。そればかりか、黒雲さえ晴れてきたのだから、あの召喚英雄の力が掻き消えたのだと考えるよりほかない。

「シェネ………」
 背後から声がしたので岸壁から身体を離して振り返る。顔を見ずとも怒りがわかるのは、ゼスタールの声が震えていたからだ。
「なんであんなことをしたんだ!? 危ないだろうに!」
「あー、あれはね、死ぬかと思ったね。流石に」とシェネは肩を竦めてみせた。
「そんな簡単に――」
「どうして羽も無いのに飛び降りたのか、わたしにも理解できない」

 上から声がしたので、ゼスタールの諫言が止まる。透き通るように白い肌に長い銀髪は、シェネの友人でもあり、この死哭空域の管理者であるクロエだった。
「だってゼスタールよりわたしのほうが着地するのは得意だから……、ゼスタールだけでも助けられればと思って………」
「この高さでは得意も不得意も無いだろうに。それに空中でどうやって助けるんだ」
「まぁ、いいじゃんいいじゃん」
 とシェネが軽く流そうとすると、「シェネ……」とまたゼスタールが諫言を再開しようとしていたので、シェネは彼に背を向けてクロエに向き直った。「それより久しぶりだね、クロエ。さっきの男は何? 召喚英雄……、だよね?」
「そうだ」とクロエは首肯した。「名前は知っている。あれがこの場所に現れたときのザインの使途の言葉を聞いた。《ヴェルチンジェトリクス》だ」

 《ヴェルチンジェトリクス》。
 慟哭城で技術者として働き、召喚英雄についてはある程度の情報には通じているシェネだったが、その名は聞いた覚えが無かった。
「カエサルがどうの、って言ってたけど」
「どうやらそれも、そういう名前の召喚英雄のことらしい。何か因縁の相手らしいが、詳しくは知らない。死哭空域の原因だ。雷雲はあの男が呼び寄せている
「まるで雷神だね。召喚英雄っていったら化け物って相場が決まっているけど、あんなに力の強い召喚英雄は見たことがないよ」
「そうだな。あれは制御が効かない。この空域を出るんなら、対流と雷雲が収まっている今しかない。早く船に戻ったほうがいいだろう」
 とクロエはシェネを……、そしてゼスタール、ザジ、ウォンガに確かめるような視線を向けていった。

 頷いて船に戻ろうとする彼らに背を向け、シェネはクロエに懇願した。「戻るよ。でも、その前に……、クロエ、お願い。力を貸して」
 クロエは大袈裟に溜息を吐いてから、「あなたたちを見つけ次第、拘束して引き渡すように言われている」と言った。
「慟哭城の主ね?」
「そうだ。パルテネッタだ。本来なら、ゼスタールとか言ったか……、彼を助けるまでもなかったし、こうしてあなたたちを見逃そうとしているのも、本来なら職務を外れた行為だ。それなのに、あなたはさらに法を逸しろと言うのか?」
「駄目?」
 シェネが小首を傾げると、クロエは大きく肩を下げ、またしても溜息を吐いた。「何があるんだ? 慟哭城の主に逆らい、船を奪ってまで、あなたや……、彼、ゼスタールが目指しているものとは、いったい何なんだ?」
「それは………」えっと、えーっと、とシェネは考えて、思い出そうとし、しかし、「わたしも知らない」と正直に答えることになってしまった。
「は?」
「ゼスタールに聞こうと思ってたんだ。ううん、最近、なかなかお話ができなくて」
「あなたは……、本当に気まぐれでいいかげんだ」とクロエは今日三度目の溜息を吐いた。
「だって猫だもん」


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