小説ラスクロ『生還の保証無し』/時代2/Turn3《海難》


7-143R《海難》
空でも海でも、運不運の波というものは存在する。

『みなさま、お元気でしょうか。
 こちらメルク氷海は非常に荒れ狂っており、船はよく揺れています。ですがいまは波穏やかで安定しており――』

 《青氷の神軍師 ミュシカ》は書きかけの手紙をくしゃくしゃに丸め、溜め息を吐いた。
 こんな手紙、王宮の女官たちには見せられない。幾ら後半で繕ってみせたところで、危険な海の上にいるという事実は変わらないのだ。読んだ途端に顔面を蒼白にし、女王に今回の遠征について問い詰めるという光景まで思い浮かべてしまうのは流石に己の人気を過大評価し過ぎだろうか。

 現在波が穏やかだというのは嘘ではない。おかげで手紙が書ける。メルク氷海には人間の住む島は非常に少ないが、転送魔法で小質量の物質なら転送できる。
 もちろん常に動いている船の上なので、向こうから座標が特定できない船に向けて物資を支援してもらうことはできないのだが、一方的とはいえ繋がっていると思えば心強いものだ。

 その代償といってはなんだが、宮廷の女官たちから、定期的に手紙を書くように、と懇願されてしまった。渡された便箋はデフォルメされた兎と花が描かれた可愛らしいもので、見ているだけで心地良い気分になるものだが、その上に文字を綴ろうとすれば、虚実をどれほど混ぜるべきかと悩んでしまうのだ。

『船の上はとても快適です。みなさん良い人ばかりですし、いつも新鮮な発見があり――』
 とりあえず肯定的な面だけを綴ろう、と筆を再開させかけたが、背後で呻き声が聞こえたのでミュシカは振り返った。

「ヴィクト―さん、大丈夫ですか?」
 ミュシカたちの居室である二等船室は、機関部を除くと四層構造の船の一番下にある居室に連結された部屋だ。中央に兵棋盤を置くのがせいぜいという大きさのテーブルがひとつ、それを挟むように壁に固定された二段ベッドがふたつと、非常に狭苦しい。呻き声の主は二段ベッドの下の段にいた。
「いま……、何時だ?」
「15時……、半を少し過ぎたところですね」
「そうか」
 最初、血管の浮いた手だけがカーテンの隙間から伸びてきた。しばらく経ってからようやくベッドのカーテンが引かれ、弱々しいヴィクトーの姿が現れた。

「きみは元気だな……」
 ヴィクトーの顔はいつもに増して青白く、声は弱々しかった。
 医者ではないミュシカでもそれと判る、船酔いである。

 伝説の浮き島探しのため、召喚英雄《アーネスト・シャクルトン》を隊長とする探検隊の募集が始まったのが一ヶ月前。
 隊長、《アーネスト・シャクルトン》を筆頭に、船員が副隊長、1名。船長、1名。航海長、1名。一等航海士、2名。二等航海士、2名。三等航海士、1名。船医、2名。AB級甲板員、5名。機関員、2名。
 また乗組員として、地質学者、1名。気象学者、1名。物理学者、1名。生物学者、1名。写真家、1名。画家、1名。倉庫管理係、1名。船大工、1名。料理人、1名。調理手伝い、1名。氷雪騎士、1名。軍師、1名。
 総勢、30名。

 船はあらかじめ氷の女王によって用意されていたが、探検隊員に関しては組織されたばかり。おまけにミュシカを含むおよそ1/3が船旅など未経験なのだ。
 不安ばかりの船旅が始まった直後、《青氷の神軍師 ミュシカ》は船酔いに悩まされた。食事を前にしても食欲が湧かぬほどで、嘔吐さえした。どちらかといえば乗り物酔いに強い部類だという自負があっただけ、今後どれくらいこの船酔いに苦しまねばならないのだろうかと、不安ばかりで泣きたいほどだった。

 が、半日も経ってしまうと、慣れた。
 最初はただ座っているだけでも酔いに悩まされたものだが、いまは手紙を綴る程度のことはできる。ときたま酔いの予兆のようなものを感じないでもないが、上を向いて船室の木目を見ているうちに良くなるので、問題は無い。

 が、誰しもがそういくわけではないらしい。

「あの、ヴィクトーさん。まだ気分が悪いなら、休んでいても大丈夫ですよ。いまは波も穏やかみたいだし、観測にもそんなに人手は要らないかも……」
「そういうわけにはいかない。16時からワッチだろう。仕事は仕事だ。それに、あの召喚英雄に氷雪騎士がこの程度だと思われるのは、癪だ」

 ワッチというのは航海における当直の意味なのだが、ミュシカもその制度のことを船に乗ることになって初めて知った。

 12時間を4時間ごとに3つに分け、0時から4時を第一、4時から8時を第二、8時から12時を第三班が当直になり、作業を行う。つまり4時間働き、8時間休むという形だ。午後も同様の形態で作業する。これがワッチで、ミュシカとヴィクトーは第二ワッチに割り当てられた。

 もちろんミュシカら船の素人には、船の機関を動かしたりすることはできない。だから航行に関する業務は航海士らがワッチを組んでおり、ミュシカら12名の乗組員のワッチは主に研究業務に関するものだ。
ワッチは針路保持等の航海に関する作業だけではなく、大気観測、海洋観測、生物採集の研究業務を行う」というのは、メルク極海を航海するうえで《アーネスト・シャクルトン》が提案したことであった。
「観測だとか、研究だとか、学問に費やす意味がどこにある?」
 と挑戦的に問い質したのはヴィクトーだ。乗船直後で、まだ元気だった頃の、ヴィクトー。
「最初に言っておきたいが、隊長はわたしだ。だからすべての決定権はわたしにある。部下に文句は言わせん。以上。
 で、済ませてしまってもいいのだが、いちおう伝えておこう。本航路は未知の航路であり、気象・海洋・生物に関してもまた未知の状況であるといって差し支えが無かろう。ゆえに本航路において新たな発見を為すことができる可能性は大きく、それはたいへん意味のある行為である。ゆえに本航海で観測業務は欠かせない」

 実際の観測業務というのは、書庫で本に埋もれていては解らないほどに大変だった。
 たとえば気温を計るにしても、海上付近なら気温計を使えばよいのだが、もっと空の上のほうの鉛直構造を観測しようと思うと、気球を浮かべる必要がある。気球に温度計をぶら下げるのだ。
 ラジオゾンデというのがそうした装置なのだが、実際にそれを使用しようとすると、気球保持に1名、気球内部の瓦斯送入に1名、気球のモニタリングに1名、総合指令に1名と、割り当てられたワッチの4人全員が必要になる。
 ヴィクトーが休むとなると、状況を見て指示をするという人間がいなくなるため、勘で瓦斯の量や放球タイミングを得るしかなくなる。だから、彼がワッチの仕事を果たしてくれるのは嬉しい。
「でも――」
「それは良い心がけだ」

 頭上から太く低い声が降ってくると同時に、ミュシカの両肩に重い物が載せられた。ミュシカの頭を一掴みできそうな掌だった。

 《アーネスト・シャクルトン》。

船に乗ると、一割の人間は船酔いなど初めから感じないが、九割の人間は船酔いになる
 八割の人間は、そのうちに船に慣れるものだが、一割の人間は船に慣れるということが無い。きさまは後者だな、ヴィクトー。
 とはいえわたしは働けない人間に無理矢理働かせたりはしない。きさまが働かなければ、同じワッチの人間が苦労するというだけのことだ。ではな」

 シャクルトンは言いたいことだけを淀みなく綴ると、ミュシカの肩から手を離して二等船室を出て行ってしまった。
 苦虫を噛み潰したような表情でシャクルトンを見送ったヴィクトーに、「本当に無理しないでくださいね」とだけ言って、ミュシカは二等客室を出て階段を駆け上がり、先に甲板へと向かった。正確には、シャクルトンの元へ。

 大股でずんずんと歩く《アーネスト・シャクルトン》に小柄なミュシカが追いつくためには、殆ど全速力で追いかけなければならなかった。
「あの、シャクルトンさん」
 人がすれ違うのがせいぜいという狭い船内通路1階で、ようやく追いついた。
「隊長と呼びたまえ」
「えっと、あの、隊長。一割の人間は船に慣れることがない、と言っていましたけれど……、あれは、本当ですか? ずっと変わらないのですか?」

 ミュシカの問いを受けて、初めてシャクルトンは立ち止まった。振り向いたシャクルトンは甲板に出るための開かれたままのドアを背にしていたため、彼の背に向けて西日が射しており、ミュシカには眩しかった。
「先ほどのは極端な話だ。人間、慣れないということはないので、ヴィクトーの船酔いの症状は徐々に緩和するだろう」
「そうなんですか。良かった………」
 ミュシカが安堵の息を吐くと、《アーネスト・シャクルトン》の分厚い掌が伸びてきて、ミュシカの頭の上で左右に動かされ髪を乱した。
「良き子だ」
 撫でられたのだ、と理解するまでに時間がかかるほどにぎこちない所作で、おまけに冷たい眼光はそのままだったから、ミュシカにはシャクルトンという男がよくわからなかった。

(そもそもこの船旅すら、理由がよくわからないんだけどね)
 ミュシカは一ヶ月前、ヴィクトーと共に初めてシャクルトンと出会ったときのことを思い出したそうとした。


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