小説ラスクロ『生還の保証無し』/時代1/Turn2 《氷獄の大公主》


8-104R《氷獄の大公主》
ヘインドラでは、氷獄という冷気の地獄の存在が信じられている。そこに住む氷精たちを統べる主は、悪魔のように美しいという。

「剣王、ご無事ですか!?」
 氷雪騎士を退けたあとになってようやく登場した、エシャローテの護衛騎士たちは汗だくだった。急にエシャローテがいなくなり、かと思えば季節外れの吹雪に加え、剣戟の音まで聞こえて来たのだから、重い鎧を身に着けて走らずとも、冷や汗に塗れたに違いない。

「丘の下を確認せよ。暗殺者の氷雪騎士の死体を確認するのだ」
 命令を発しつつも、《千の剣王 ラハーン》はあの氷雪騎士の生存を確信していた。重い鎧を身に付けておらず、しかも丘の下はティルダナ特有の灌木林となっているのだから、落下の衝撃はそう重くはあるまい。おまけにあの氷雪騎士の身のこなしなら、死んだはずがない。

 護衛の補充と戦況の確認、他の奇襲隊がいないかどうかの確認まで終わらせたところで、ラハーンは《聖夜月の歌姫 エシャローテ》に向き直った。
「お父さま、ご無事で良かったです。わたし、どうしても厭な予感がしたもので――」
 《千の剣王 ラハーン》は、少女の柔らかい頬を分厚い掌で張り飛ばした。

「馬鹿者め………」
 突如として叩かれ、己に何が起きているのかさえ理解できていないという表情で崩れ落ちるエシャローテを、ラハーンは叱咤した。
「おまえは自分の立場というものを理解しているのか!? 」

「でも、お父さまのことがどうしても心配で――」
「おれはだな」ラハーンはエシャローテを見下ろしたまま拳を握り、手近な樹の幹をあらん力の限りで殴った。「出しゃばるなと言っているのだ。おまえに騎士のように戦うことなど期待してはおらん。いいか、おまえは姫なのだ! 姫なら姫らしくしていろ」

 ラハーンが殴った樹には亀裂が入り、巨木が頭を下げた。
「すみません」
 すみません、申し訳ありません、と視線を伏せて哀願するように繰り返すエシャローテの姿を、ラハーンは見ていられなかった。

 おまえがいてくれて助かったと、来てくれなければ死んでいたと、でも危険なことはしないでくれよと、無事でいてくれて良かったと、そんなふうに声をかけ、柔らかそうな髪を撫でてやればどんなにか良いだろうと思った。可愛らしい笑顔を見せてくれればどんなにか癒されるだろうかと思った。
 だが《千の剣王 ラハーン》は一切の感情を肚の内に封じ込め、偽りの怒りでエシャローテを叱責した。

 理由はふたつ。
 ひとつは、己が戦場に出るだけの力があるのだと慢心した娘が戦場に出るということを避けるため。
 もうひとつは、先ほどの氷雪騎士との戦いで目覚めかけた娘の能力が、これ以上開花しないようにするため。
 いつかは剥がれてしまう封印とはいえ、可能な限り娘は娘でいて欲しかった。

 どんなにか嫌われてもいい。
 どんなにか恨まれてもいい。
 ただこの子が息災であってくれれば——。

 言葉にしてしまえば珍しくも無い、どんな親子にでもある愛情だった。



 かたかたと地面が揺れていた。

「ヴィクトーさん、目を覚ましましたか?」
 声に反応して目を開けるのも億劫で、左瞼に触れてみればごわごわとした感触がある。薬剤を塗布したガーゼに包帯と、簡単な手当てがされているようだ。

 右目は自由で、辺りを見回してみれば馬車の中だった。車窓から差し込む陽は赤く染まっていて、腹の軽さも相まって夕餉時だというのがわかる。
 一畳ほどの広さの客車にいる人間は、ヴィクトー以外にはひとりしかいなかった。
 座っていてもわかるほどに小柄で、癖毛と紅い頬の愛らしい少女にも見える容姿の少年は、しかしヘインドラが誇る軍師である。
 
「口の中が切れているので、喋らないほうがいいですよ。酷い怪我ですね。宮廷の女官の方々が悲しむかな」
 と《青氷の神軍師 ミュシカ》は子どもらしい人懐っこい笑みを浮かべた。
「状況は……? いまは、作戦開始から五、六時間ほどで合っているか? ここはどこだ。ミュシカ、きみはこんなところに居ていいのか?」
「ええと、現在は撤退中……、というか帰還中ですね。ティルダナの小島奪取は失敗です。時間は合っています。正確には作戦開始から五時間と二十二分ですね。ここはもうヘインドラ領ですよ。口の中とか、痛くないですか?」
「失敗………」
「あの、ヴィクトーさん。ほんとに休んでてください。いま、あなたできてることはありません。もし気持ちが悪かったりしたら、教えてください」

 自分で馬に乗るなら兎も角、馬車に揺られるのは苦手だ。気分も悪くなろうというものだ。
 そう言ってやると、「頭を打っているみたいなので、異常が無ければ良いんですけど」とミュシカは心配そうに眉根を寄せた。
「そう酷い怪我じゃない」と、幼いミュシカが不安そうな表情をするのがあまりに可哀想だったので、ヴィクトーは言ってやった。「それよりも、戦いがどうだったかを教えてくれ」
 
 ミュシカはしばらくヴィクトーを見つめていたが、しばらくして大袈裟な溜め息を吐いた。黙らせて休ませるのは諦めました、というポーズだろう。
「どうもこうも無いですよ。もともと、そういう女王から言われていたんです。ヴィクトーさんが戻ってきたら、小島奪取は諦めて撤退せよ、と」
「女王が……?」
「ヴィクトーさん、自分で歩いて戻ってきたんですけど、覚えてないですか?」

 灌木林に落ちたあとのことは、朧げにだが覚えている。ほとんど本能で陣に戻ったようなものだが、人の見分けさえつかない状態だったので、敵陣に向かわなかったのは幸いだった。
(いや………)
 こんな情けないさまを見せるくらいなら、敵陣で最後まで戦って死んでいたほうが良かっただろうか。

 ことことと揺れる馬車の中、対面のミュシカを見やる。ヴィクトーとの会話が無くなってから、何やら書物に目を通していたようだが、いまや長い睫毛が下瞼にかかっていた。僅かに開かれた小さな唇からはゆっくりと吐息が漏れ、薄い肩がそれに合わせて上下している。子どもらしい寝姿だった。
 ヴィクトーは改めて己の頭に巻かれている包帯に触れた。少し弄れば解けてしまいそうなほどぎこちない。《ヘインドラの救護兵》ではなく、ミュシカが手当てをしてくれたのかもしれない。礼を言い忘れた。

 車窓から外を見やる。夕陽は沈み、天には月が輝いていた。
 月を眺めていると、聖砂の照り返しを受けて同じくらいに輝いていた少女のことを思い出す。戦場で《千の剣王 ラハーン》を庇ったあの少女は、ラハーンを「お父さま」と呼んでいた。であれば、彼女は《聖夜月の歌姫 エシャローテ》で間違いなかろう。

 ヴィクトーは、彼女を殺すことに躊躇した。
 あそこで躊躇していなければ、今頃はラハーンを殺せていたはずなのだ。

 両親を失ったヴィクトーと妹を引き取ってくれたヘインドラ氷雪騎士団。
 そしてヘインドラの氷の女王。

 彼女らの恩に酬いるためにも、此度の《千の剣王 ラハーン》殺害の任は果たさなくてはいけなかった。
 なのにあの少女の姿を見た瞬間、ヴィクトーは思い出してしまった。同じぐらいの年齢の妹の姿を。エルダのことを。

 目の前で寝ているミュシカに遠慮して、壁に叩きつけたくなる拳を握り締めた。血が出るほど握り締め、ヴィクトーは己がものでエシャローテを突く光景を思い浮かべた。
 どんなにか泣いても、叫んでも、突き上げるのを止めずに、その小柄な身体を蹂躙する様を想像した。

 身体が震えた。

 終わってしまえば、想像だけで己を満たすのは情けなかった。ヴィクトーは自己嫌悪を抱えたまま、ミュシカとともに氷の王宮へと戻り、女王へと敗戦の報告をした。
「申し訳ありません」
「いいのですよ、ヴィクトー。もともと期待してはいませんでしたから」
 階下から見上げる氷の女王は、いつも通り柔和に微笑んでおり、その言葉に嘘が無いことは理解できた。ヴィクトーはこのまま階段に頭を打ち付けたくなった。

 そうしなかったのは、氷の女王の傍らに見覚えが無い男が立っていたからだ。
 年の頃は三十代後半から四十代といったところだろうか。首が太く、口と顎の幅が広い男だった。中央でぴったりと撫で分けられた暗褐色の髪は神経質めいた几帳面さを感じさせる。
 そして額の下の眼。
 灰色のその眼に、ヴィクトーはなぜだか氷の女王と同じ種の冷徹さを感じた。

「この召喚英雄に同行していただきたいのです」

 これがサー・アーネスト・シャクルトン》という冒険家との出会いだった。


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