小説ラスクロ『生還の保証無し』/時代1/Turn1《青鏡の宝珠》


8-118U《青鏡の宝珠》
「鏡よ鏡、はねのけられた痛みは過去に、輝ける未来のみを我が手に。」
~氷獄の大公主~

 寒さが腰に響けば響くだけ、己の老いを実感する。
 ましてや己の半分ほどの年齢にも達していないであろう、まだ若さの残る顔つきの騎士に圧倒されてしまえば、衰えを感じずにはいられない。相手はヘインドラの騎士なので、まったく、年寄りの冷や水どころでは済まない。寒く、冷たく、鋭い。

 戦場の趨勢は未だ決まってはいない。
 というよりも、始まったばかりで、この指揮系統が置かれた小高い丘の下では、ティルダナの《ゼルバの砂術尖兵》らとヘインドラの《木枯らしの氷結士》どもの戦闘が行われているのだ。

 遠眼鏡を覗き、さて戦場がどう動くかと身構えていたところで襲って来た極寒の風は、だからティルダナがお手の物としていたはずの《急襲戦術》と呼ぶにほかなかった。

 奇襲者の数、僅かに10足らず。

 その奇襲隊を指揮しているらしいのは、端正な容貌の青年であった。身につけているのは襟元から足まですっぽりと隠すロングコートで、戦闘向きではないように見えるが、己が氷結術の寒さから身を守るための装いだろう。つまりは氷結術使いで、それなのに携えているのは長剣だ。

 ——氷雪騎士。

 ヘインドラでそう呼ばれる騎士がどんなにか恐ろしいか、《千の剣王 ラハーン》はこれまでの幾多もの戦争で身を以て知っている。
 事実、若き氷雪騎士は、奇襲とはいえ指揮所を護る数十人の護衛騎士たちを瞬く間に戦闘不能に追い込んだ。

(ヘインドラの阿婆擦れの売女め、よもやここまでやるとはな………)

 どうやってこの指揮所の位置を見切ったのか、いかようにして気付かれることなく辿り付いたのか、そんな疑問は、ヘインドラを統べる女王の遠見であると言ってしまえば、それで片がつく。あの化け物女が何をしても、ラハーンはいまさら驚いたりはしない。
 重要なのは、丘の下の戦場のことは兎も角、この指揮所に関してのみいえば既に味方の殆どが倒れ、立っているのはラハーンと敵の奇襲隊のみというこの状況なのだ。

 先制して指揮系統が大打撃を受けたからには、大将である《千の剣王 ラハーン》までもが倒れれば、戦場の兵士がどうなっていようとも、勝敗は決する。
 だから、倒れるわけにはいかない。
 だから、負けるわけにはいかない。
 どんなにかそう考えても、身体は老いを許してはくれない。

 無双と謳われた剣刃は、奇襲兵をひとつふたつと切り裂いた。
 が、隊長格と思しき氷雪騎士に対して、その剣は通用しなかった。

 つぅと額を流れた冷汗が、薄くなりつつある白髪が、金属が冷たさを伝える鎧が、娘に嫌がられている髭が、産まれたときから慣れ親しんだ五体が、凍りつつあった。
 冷気の源は改めて問うまでもない、眼前の氷雪騎士の氷結術だ。無双の双剣を長剣でいなしながら、《吹雪の壁》で徐々に徐々にと《千の剣王 ラハーン》の体力を奪っていく心積もりのようだ。

(馬鹿なやつだ………)

 見た目通り、まだ若い。見極めというものが足りない。
 こんな小細工などせずとも、ラハーンの体力はすっからかんだ。若い身体とは違うのだ。剣戟に付き合っているうちに、息切れしてしまうのだ。
 だから用意周到な小細工など無用のものなのだ。若いというのは無駄が多い。おれにもこんな頃があったかな、などと想いを馳せれば、戦闘の最中だというのに笑ってしまう。
 笑えるということは、それだけ余裕があるか、でなければ諦めの境地ということで、後者であることは自覚していた。

 両手から剣が滑り落ちる。
 体力が底がつくとともに、《千の剣王 ラハーン》は膝を下ろした。
 もはや立つこともままならない。最後に言い残すことでも何かあるだろうか、辞世の句でも詠んでおくべきかな、などと折角考えていたのに、氷雪騎士は一瞬の油断も無く、剣を振りかぶった。まったく、遊びの足りないやつだ。ラハーンは瞼を下ろす。

「お父さまっ!」
 声に起こされるように目を見開けば、広がったのは小さな白い背中だった。

「お父さま、早く……、早くお逃げください!」
 ラハーンの娘、《聖夜月の歌姫 エシャローテ》が護身用に持たせていた小さな短剣ひとつで、氷雪騎士の眼前に立ち塞がっていた。
 指揮所に娘が来る予定だということは知っていた。というより、ティルダナ王家の姫として、戦争のひとつでも見て、民が戦い、死ぬということはどういうことかを見学させようとしたのはラハーン自身だ。

 彼女がひとりでここまでやって来たはずがない。護衛の騎士や送り届けた馬車が近くにいるはずだ。彼女だけ、異変を察知して馬車から飛び出してきたのだろうが、同行者が来ればもう少し持ち堪えられるだろう。
 いや、無駄か。エシャローテが飛び出してきたことで、無感情に見えた氷雪騎士の剣先が一瞬だけでも停止したことさえ奇跡的なことなのだ。
 跪いた姿勢の《千の剣王 ラハーン》からは、氷雪騎士の顔はエシャローテの身体で隠れて見えずとも、その剣の動きは、少女の小さな背中では隠せない。

 氷雪騎士の剣先が引かれる。剣を収めようというわけではない。切るのではなく、突くための動作。
 エシャローテの身体を避けて、ラハーンの心の臓を貫こうという腹か。機械のように冷たく鋭いこの騎士にも、未だ幼さの残る少女を殺さない情はあるということか。まったく、ありがたいことだ。

 突き出された剣が突き刺さっていたのは、巨大な腕

 エシャローテのものでも、ラハーンのものでも、もちろん氷雪騎士のものでもありえないその腕は、氷雪混じりの砂で構成されており、地面から突き出していた。
 表情は、背中を向けたエシャローテのものも、小さな背中に隠された氷雪騎士のものも見えなかったが、ふたりともにが驚愕の表情を浮かべているのは容易に想像できた。

(エシャローテ………!)
 状況を理解していたのは、この場で《千の剣王 ラハーン》だけに違いなかった。
 己の才覚を理解せぬままエシャローテによって形成された砂術の握り拳が、突き刺さった剣を振り払うように抜くや、空中で叩き折った。返しの拳で、氷雪騎士を踏み躙れば、それきり動かなくなった。

「お父さま………」
 己が砂術を自覚せぬまま、しかし危機を乗り越えたことだけは理解したエシャローテが振り返るとともに、砂術によって構成された腕がはらはらと元の砂になって舞い落ちる。

 腕が消え去った刹那、倒れ臥して動かなくなっていたはずの氷雪騎士が発条仕掛けのように飛び起きるのを、《千の剣王 ラハーン》は見ていた。
 動かないでいたのが擬態だということも、空気中の水分を凝結させて槍を作り出していたことも、その槍がエシャローテともどもラハーンを貫くのに十分なほど重く巨大であることも、ラハーンは理解していた。

 弾かれるように立ち上がり、ラハーンはエシャローテを押しのけた。

 投擲された氷槍。眼前に広がるその冷たく無慈悲な大質量体を《千の剣王 ラハーン》はぶん殴った。
 馬鹿でかい氷槍を前に比較しても、娘に立つ父親のほうが何倍もでかいのだ。
 粉々になった氷槍の吹雪をかき分け、氷結騎士に接近する。

「おれの娘に何をしやがる」
 《千の剣王 ラハーン》の拳が氷雪騎士の頬を殴り飛ばせば、さながら人形のように飛んでいき、指揮所のある丘からまっさかさまに落ちていった。




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