決戦前夜/時代3/Turn6 《ナイトクドゥラク》


1-108C 《ナイトクドゥラク》
まさに悪夢といった様子だった。闇に魂を囚われた黒騎士にとって、今や仲間の屍とは踏み越えるものではなく――己の活力に変えるものとなった。


 何が起きたのか。
 アロンドはそれを問うことすらできなかった。背中から腹にかけて突き立った黒剣によって、腹の内も外も血に満たされた。声を出そうとしても、喉から溢れるのは鮮血だけだった。

「まったく、動きが解り易くて助かる」
 ウーディスが呟くが、もはやアロンドには彼の言葉を聞き、理解をする余裕は無い。

(なんてことだ………)
 この男は、ウーディスと名乗る騎士は、アロンドが願っていた通りに害悪な存在だった。
 だがその悪は、アロンドが想定していたものを遥かに超えていた。
 そもそも、彼は端から《疫魔の眷属》の特性を知っていた。そのときに疑うべきであった。
 彼は《疫魔の獣 イルルガングエ》を誰よりも深く知っているのだと。それと同等の存在なのだと。

 逃げなくては、という発想は既に無かった。なぜならば、腹に大剣を突き刺され、どくんどくんと鮮血が噴き出しているのだ。医者に担ぎ込まれたところで、無駄だろう。そもそもが、相手はウーディスだ。無傷のときでさえ、彼から逃げることなどできないだろう。
 
 だが。
「ウーディスさま……、いらっしゃいますか?」
 扉の向こうから、ノックの音のあとにフィーの声が聞こえてきた。式典から抜け出してきたウーディスのあとを追いかけてきたのかもしれない。
 その声を聞いたとき、アロンドは生きるための活力を取り戻した。一分一秒でも長く生き延び、彼女を無事に逃がすために。 



 躊躇いがちなノックとともにフィルメリア王女の声が聞こえて来ても、ウーディスは慌てなかった。
 二対の剣のうち、もう一本を抜き放ち、部屋の中央に《闇の魔穴》を作る。バストリアの北方にある奈落に通じる時空の穴だ。

「じゃあな、王宮医師アロンド」
 ウーディスはアロンドの身体を《闇の魔穴》をに投げ入れ、穴を閉じる。奈落の中ですぐに息絶えるだろう。
 床や壁に飛び散ったアロンドの血は、付着した場所に小さな時空穴を作って削り取る。古い部屋なので、多少傷がついていても不審には思われないだろう。

(武器一つ持たずにやってくるとは、まったく、馬鹿なやつだ)
 ウーディスは苦笑しながら、部屋の扉を開けた。式典用の煌びやかなドレスから地味な格好に着替えたフィルメリアが立っていた。
「これはこれは、姫さま」
「夜分にすみません。晩餐会を抜け出されたと伺ったので……」
「申し訳ありません。自分はあのような場所はあまり得手ではありませんので」
 とウーディスが応じると、フィルメリアがくしゃみをした。
 部屋が埃っぽいせいだろうか。でなければ、薄着だからかもしれない。フィルメリアの恰好は、薄い生地のワンピースの上に肩掛けを一枚羽織っているだけで、寝間着に近い格好だった。城からこの見張り塔まで、殆ど人目が無いから気にしなかったのだろう。
「フィルメリアさま、温かい茶を淹れますので、よろしければ中で休んでいかれてはいかがですか?」
「よろしいのですか?」
 ぱぁとフィルメリアの顔が明るくなるからには、ウーディスの部屋の中に興味を持っていたらしい。

 椅子が無いので、ウーディスはフィルメリアにベッドに座るように促した。
 フィルメリアはおずおずとベッドに腰掛けてから、大きな鳶色の瞳を丸くして部屋を隅々まで観察している。
「ウーディスさまの部屋には、本がたくさんありますね。まるでアルの部屋みたいです」
「自分も魔術師の末端でありますれば、幾分の勉強もしております」
 受け答えをしながら、卓上の小茶器で茶を淹れる。魔力を熱に変換するタイプで、小型ながらすぐにお湯が沸く。

 茶を注いだ湯呑みを渡してやると、フィルメリアは一口啜って、美味しいです、と微笑んだ。
「ウーディスさまはお飲みにならないのですか?」
「兜を脱がねば飲めませんね」
「お脱ぎにならないのですか?」
「姫さまの御前でこの顔を曝すわけにはいきませんので」
「病気のために兜を被っていると伺ったのですが、それほど重いご病気なのですか?」
「と、いうわけではありませんが……、どちらにせよ、姫さまにお見せするほどの顔ではございません」
「どうしても?」
「そうですね。もし姫さまが………」
 言いかけて、ウーディスは黙った。言いかけたのは、馬鹿らしい言葉だった。

「あの、ウーディスさま………」とフィルメリアが沈黙を嫌うかのように、おずおずと切り出す。「お父さまからお話を聞いたんですが」
「はい」
「あの、えっと……」とフィルメリアは躊躇いがちに口元に手を当て、頬を薔薇色に染めた。「け、結婚のことを………」

 ウーディスはその先を聞きたかったが、空気の色が既に変わっていた。ウーディスはしぜん、壁から背中を離し、小窓から外へ視線を向ける。
「ウーディスさま?」
 不思議そうに問うたフィルメリアも、視線を追って気付いたようだ。

 既に空が、夜よりも暗い闇色に染まっていた。
 空を覆い尽くしていたのは、大量の《疫魔の眷属》。そして《疫魔の獣 イルルガングエ》。

(予定通りだ)
 ウーディスは鞘に納めた二対の剣を確認すると、フィルメリアに向き直った。
「姫さま、イルルガングエが現れたようです。自分は討伐に向かいます」
「イルルガングエは……、ザルガンに居るはずではなかったのですか?」
「何事も予定通りというわけにはいかないものですよ。
 姫さま、その部屋からは動かぬよう。この塔には、自分の練り上げた結界が張られておりますゆえ、《疫魔の眷属》は近づけません」
「でも、アルやお父さまは………」
「イルルガングエは自分が討伐しますゆえ、ここでじっとしていてください。なに、一眠りしている間に終わることです」

 フィルメリアの返事を聞かずに部屋を出て、扉に鍵を掛けたうえで部屋全体に結界を張り直す。
 これで扉からも小窓からも、鼠一匹侵入できない。中からも出られず、また万が一塔が崩壊するようなことがあっても、部屋の中だけは無事だ。

 ひとりきりになったウーディスは塔を出て、王都の中心部へと向けて駆けた。

 騎士団が討伐に向かう前夜、それまで全く動きの無かった《疫魔の獣 イルルガングエ》が動き出し、大量の《疫魔の眷属》とともにバストリア王都に侵攻する
 それはわかっていたことだった。
 バストリアでは多くの者が死ぬだろう。疫魔に侵され、でなければ火に焼かれるだろう。
 その中で、ウーディスがやるべきことはたったひとつだった。

「久しいな……、イルルガングエ」
 逃げ惑う民衆の中、ただひとり棒立ちで強い魔力を放つウーディスに、イルルガングエが反応した。巨大な赤目が漆黒の鎧を睨む。
 不気味な隻眼に相対し、ウーディスは不思議な懐かしさを感じた。

 長かった。
 ここに辿り着くまでどれだけの時間がかかっただろうか。幾千年。禁呪であるプレインズウォークを身に付け、次元を渡り歩くようになったウーディスには時間の概念というものが欠落するようになっていた。
 ただこの場、この時に辿り着くために、ウーディスは様々な物を切り捨てて来た。

 すべてが崩壊する前にイルルガングエに会うために、己の生きてきた世界を捨てた。

 次元の壁を超えるために、枷となる時間の概念を捨てた。

 同一存在として記述されているがために自身の存在を揺るがしかねない、他次元でのもうひとりの己を捨てた。

 たったひとつの目的のために、ウーディスはかつての名前を捨てた。
 愛する女性を守れなかった、アロンドという男の名を。

「《疫魔の獣 イルルガングエ》……、おまえを殺す」
 宣言とともにウーディスは双剣を抜き、構えた。

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