ブロセリアンドの黒犬/03/07 《壊嵐の獣 オグ・シグニス》


3-049S 《壊嵐の獣 オグ・シグニス》
異界から現れた嵐の災いの獣は、最後まで名乗ることはなかった。
だが、人々は恐怖とともに彼をこう呼んだ……シグニィの敵対者、「オグ・シグニス」と。


 言うまでもなく、《ベルトラン・デュ・ゲクラン》の長腕に比べればエルトラの腕は短かった。
 その腕の中に抱かれているのは、亜麻色の髪を編んで纏めた少女だ。顔立ちは幼いものの、身体つきはといえば、バストリアの《乱世の走狗》やガイラントの《秩序の破壊者》ども大好物といったところだが、追いかけてくるのは人の姿をなしてはいない存在である。捕まれば、心と身体に傷を負うだけでは済まないだろう。

 長腕の代わりに生えているスワントの長い翼は、しかしこの場では役に立ちそうも無い。
 ゼフィロンの辺境、アル・テトラの村では、死体の転がる凄惨な光景が描き出されていた。その光景を作った存在、《壊嵐の眷属》どもは、猛禽類のような翼で追いかけてくる。身軽な状態ならまだしも、腕に少女を抱えていれば、すぐに追いつかれてしまう。家屋の物陰に身を隠しながら、ゆっくりと進むのが精いっぱいだ。

「ひっ………」
 《壊嵐の眷属》を避けるために家に入ったとき、抱えられている少女が小さな声をあげた。屋内にある死体と、それを啄む《壊嵐の眷属》を見たからだった。
 足を負傷した少女を床に下ろし、弓を構える頃には、既に《壊嵐の眷属》は食事を中断し、跳びかかってきていた。

 エルトラの放った矢が、《壊嵐の眷属》に突き刺さる。
 だが跳びかかってきたせいで狙いは逸れ、翼に刺さっていた。致命傷ではない。すぐにもう一度跳びかかってくる。
 エルトラは《壊嵐の眷属》の一撃を受け、弓を落としていた。だから矢筒から矢束を抜き出し、それをそのまま頭に突き刺した。
 《壊嵐の眷属》は奇妙な鳴き声をあげて、ばたばたと翼を動かした。しばらくして、動かなくなった。

 荒い息で、エルトラは眷属の死体を見下ろす。死んだ、が、先ほどの鳴き声でほかの眷属が集まってこないとも限らない。早く行かなくては。
「兵士さん………」
 と震える声で少女が言った。
「もう少しなので、行きましょう」
「あの」
「怖ければ、目を瞑っていてください」
「あの、頭の怪我が………」

 言われて、エルトラは頭から出血していることに気づいた。《壊嵐の眷属》の爪が瞼の上を切り裂いたのだ。
 目にかかるほどの出血があったが、致命傷ではなく、眼球に異常がないことは自分でわかる。片目を瞑れば、大丈夫だ。
 だが少女はそれを許さなかった。スカートの裾を裂いて包帯代わりにし、瞼の上に巻き付けた。柔らかい指先が顔に当たるのを心地良く思いながら、エルトラはこれまでの出来事を思い返した。

 災害獣。
 アトランティカの各国は、そんなふうに呼ばれる未知の生物に悩まされていた。もちろん、ゼフィロンも。
 ゼフィロンに現れた災害獣は、ほかの国の災害獣とは異なり、人間とよく似た姿をしていた。そのスケールさえ除けば。
 ガイラントの《ガイラの末裔》よりも巨大な災害獣は、獣と鳥とが合体したような眷属を引き連れて、ゼフィロンの各地に出没した。一見して鈍重に見えるのに、殆ど目に留まらぬような動きさえするその災害獣の足取りを掴むことは容易ではなく、また対峙したとしても、師団をその扇のひと扇ぎで吹き飛ばす化け物には太刀打ちできなかった。

 この村、アル・テトラは災害獣の被害の只中にあった。《雷火獣》のような聖獣が生息する森にほど近いものの、特に目立った産業もない、寂れた村である。
 にも関わらず、災害獣は眷属を引き連れて現れ、破壊を開始した。

 すぐに本国は軍を派遣した。だがその大部分は、災害獣と眷属によって吹き飛ばされ、引き裂かれ、そして啄まれた。
 エルトラは生き残ったが、戦うだけの力は残っていない。いまや可能なのは、村の生き残りを安全な場所へと逃がすことだけだ。そう思った彼は、怪我をしていた少女を抱え、村を逃げるために奔走していたのだ。

「あの、終わりました」
 と少女が言って、エルトラから離れた。
 手当てを受けたところからは、すぐに血が滲んできて、おまけに包帯代わりが汚れたスカートの布地であれば、巻かないほうがマシではないかと思わないでもなかったが、エルトラは何も言わなかった。
 足を怪我した少女を抱え、エルトラは家屋の外に出た。
 いつの間にやら夜になったのか、辺りは暗かった。
 いや、違う。

 巨大な影が太陽を覆い隠していた。
 一見して、人間。否、巨人。総髪の、深い皺の刻まれた老人のような、巨人。だが明らかにアトランティカの生物とは違う、異物感。

 災害獣。
 
 災害獣はその手の鉄扇を振り上げるや、小さなエルトラと少女へと向けて振り下ろしていた。
 骨の一本が大木のように太いその鉄扇を、如何にして躱せるだろうか。避けられるわけがなかった。
 死ぬ
 ひとは死ぬの瞬間に、走馬灯を見るという。

「吹っ飛ばされないように踏ん張れぇ!」

 ならばこれも走馬灯なのだろうか。
 そうして開いたときには、目の前に全身を鎧で固めた人物が立っていた。
 《ベルトラン・デュ・ゲクラン》だった。

「生きて………」
 生きていたのか、そんなふうに安堵の吐息を吐く必要は無かった。ベルトランが、召喚英雄がこの程度のことで死ぬはずがないのだから。

 ベルトランは2本の槍を交差させて地面に突き刺し、それをもって災害獣の鉄扇を受け止めたのだ。避けたのではなく、受け止めた。あんな巨大なものを受け止めようとするその発想が信じられなかった。実際に受け止めるなど。

 いや、受け止められたわけではない。
「あ、やべぇ」
 ベルトランが呟いたとき、ばきり、と音を立てて、限界までしなった槍が折れた。

 再度、災害獣が鉄扇を振り上げた。今度は防ぐ手立てなどない。
 だが振り上げられた鉄扇は、下ろされることはなかった。

 辺鄙なアル・テトラの村を雷光が駆け抜けた。紫電の雷光は災害獣に直撃し、その巨体を吹き飛ばした。もうもうと土煙が舞い上がる。
 土煙が収まったとき、雷光が飛んできた方向に、ゼフィロンなら知らぬものはいない《雷帝 バルヌーイ》と、巨大な機械を随行させた軍団の姿があった。


 《雷力師団長 ニコレアナ》はアル・テトラを見下ろせる高台から、惨劇の現場となった村を眺めた。
(生き残りは……、存外いるみたい
 到着するまでに時間がかかったので、もっと被害が多いと思っていたが、召喚英雄だとかいう、《ベルトラン・デュ・ゲクラン》が随分と頑張ったらしい。先遣隊の生き残りが集結し、村人を守っていた。

『未だ《紫の宝樹》には辿りつかれてはいないようだな』
 と、空気を震わせて《雷帝 バルヌーイ》が呟いた。
 ニコレアナは頷いて、部下に号令をかける。
「全雷力師に告げます。標的、《壊嵐の獣 オグ・シグニス》砲撃準備」
「師団長。なんですかその名前は」
「知らないのですか?」とニコレアナは部下を振り返って微笑んだ。「あの災害獣の名前です。もっとも、すぐに倒されるので必要無いかもしれませんが」

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