展覧会/Dear Wendy

8月 01, 2013
 "親愛なるウェンディ。
  僕たちの物語を手紙に書こう。
  君への想いを……。"



Dear Wendy (監督:T. ヴィンターベア/主演:J. ベル)



 すごい難しい映画。難しいというのは、内容が、というわけではなく、なんというか、消化するのが難しい。間違いなく人にはお勧めしない作品。

 基本的にレビューというものは、未読・未視聴の人々に対して行うもので(そうではない場合もあるかもしれないが)、だからネタバレはある程度避けられるのだと思う。
 でもこの物語はネタバレというか、シナリオを知っても何を言っているか解らねぇというか滅茶苦茶なので、簡単にシナリオをさらう程度ならば問題ないと思う。そういうわけで最初にシナリオの流れを追う。

□あらすじ
 舞台は炭坑がある閉鎖的な町。炭坑夫以外は負け犬扱いのこの町で、主人公ディックは炭坑夫になることを拒絶していた。黒人の家政婦のクララベルは母親のように彼に接し、「いつかあなたは世界を変えるような人間になる」と言い聞かせ、町の小さな商店に勤めさせた。
 クララベルが年齢を理由に家政婦を引退し、ディックの家族も死亡してから、ひとりきりになった彼は昔買った玩具の銃を見つける。しかしそれは玩具ではなく、本物の銃だった。彼はその銃に愛情を感じ、「ウェンディ」と名付ける。
 銃を手にしたディックは自信を身につけ、同じく負け犬だった少年少女たちとともに「ダンディーズ」を結成。銃を用いた平和主義を標榜し、楽しくやっていたディックだったが、あるとき家政婦のクララベルの孫であり、幼馴染みのセバスチャンがやってくる。肉体的にも精神的にも優れた彼がダンディーズに加入したことで、ディックは己の立場をなくし、負け犬の立場に逆戻りする。
 セバスチャンから、クララベルがボケてしまって外を歩くのを怖がっており、友人の誕生日にさえ行けないということを聞いたディックは、ダンディーズたちとともにクララベルを友人の家まで護衛してやることにする。
 しかし護衛途中、親切に近づいてきた警官に対してクララベルはショットガンを発射、殺害してしまう。ディックたちはクララベルを逃がし、幼い頃から親しかった保安官に慈悲ある対応を求める。保安官は承諾するも、ディックたちは彼の心に悪を見て、クララベルの引き渡しを拒否。警官隊と真っ向から対決し、クララベルを友人の家まで送り届けることを決意する。危険な行為だ。死ぬかもしれない。どさくさで警官に奪われてしまったウェンディに宛て、ディックは手紙を書く。
 ダンディーズたちは己の特技を活かし、警官隊と対決。ひとり、またひとりとディックとセバスチャンを残して死亡していくものの、ディックはクララベルを友人の家まで送り届けることに成功する。しかしそれが限界だった。友人の家は警官隊に囲まれ、もはやどうしようもない。
 セバスチャンは奪われていたウェンディが道路に落ちているのを発見する。彼はディックがウェンディに宛てた手紙を読み、「死ぬならばウェンディに撃たれて死にたい」と書いていたのを知っていた。彼は銃撃の中、駆け出してウェンディを回収。そしてディックを殺害する満足げな笑みのまま、ディックは死亡した。

 たぶんシナリオをそのまま読むと、「もうちょっと真面目に書いてください」と言われる内容だと思う。しかしマカロニウェスタンとかってけっこうそういうものが多くって、突っ込みどころが満載なのだ。これはマカロニじゃないけど。
 たとえば、仲間の手によってモブの警官が死ぬシーンがある。ほんとにモブなので、特段の描写はない。理由もなく撃たれる。いや、理由はあって、「敵だから」だ。
 だがべつに悪いことをしたわけじゃあないし、悪人でもない。恋人や奥さん、可愛い子どももいたかもしれない。それが、「敵だから」という単純な理由で殺される。
 たとえば、ディックたちは警官たちと真っ向対決をし、クララベルを友人の家まで送り届けることにする。しかし送り届けた先に何があるのか。何もない。警官隊を全て倒せるわけがないし、倒してもその先には何もない。

 そうしたとっても突っ込みどころの多い映画なのだが、その突っ込み所を一枚剥がすと、とても空恐ろしいものが現れる。
 その恐怖は、言葉や映像ではほとんど描写されない。視聴者が己の現実を、哲学を、常識を持って対処しなければならない。
 例外として、死体解剖というか、解剖までは行かないのだけれども、病院だか警察署だかの死体置き場らしきところ(そこまで明確な描写はない)でダンディーズら味方の死体が一瞬だけ映るシーンがある。そのシーンの時点では、まだ銃撃戦の最中で、味方は死んでいるものの、死体は回収されていない。だから、未来の、仮想的なシーンだ
 だが正しくは、銃撃戦こそが仮想なのだ。
 そして、その死体置き場で死体が安置されているシーンこそが現実なのだ。

 ここでいう仮想だとか、現実だとかというのは、実際にはなかった、あっただとか、そういった意味ではない。
 敢えていうなれば、「主観」と「客観」だ。

 嘘吐きで、腹黒く、自分勝手に銃を撃ちまくるだけの大人たちを華々しく倒していく。これが「主観」。
 一方で、ふとした拍子に銃を手にした少年少女が警官を殺したため、已む無く射殺し、未来があったはずの若者たちの死体が残されるという、これが「客観」である。

 基本的にこの映画は、主人公の少年、ディックの主観を通して動き、ディックのウェンディに宛てた私信によって語られる
 だから、ディックにとって不都合なことは何も語られないし、何も映されない己を負け犬にした炭坑夫たちやセバスチャンの存在は、その時点では不快であっても、最終的にディックが銃を手にし、ダンディになるためには必要だから、叙述される。だがディックがやらかしたことに対する反論や指摘などは、一切描写されない。

 ディックがクララベルの護衛に関して仲間に説明するシーンで、ひとりの仲間がこんなことを言う。
「あ、でも......、いいえ、なんでもない」
 これだけだ。このときの台詞があとになって影響してくるだとか、そんなことは一切ない。
 このときこの仲間は、一体何を言おうとしたのだろう。たぶん、「何の意味があるの?」だとか、「もうちょっと冷静に考えてみよう」だとか、そんな台詞じゃなかったのではないかと思う。このとき、この人物は冷静だった、現実に一瞬立ち返ったのだが、ディックの世界観によって封殺されたのだ。

 ディックは幻想と共に生き、幻想と共に死んだ。多くの人間が彼につきあわされて死んだ。守るべき存在であったはずのクララベルは、最終的にはほとんど物のようにして扱われた。
 だいたい、物語の初っ端からなんだろう、これは。「親愛なるウェンディ」だ? 銃相手に手紙書いて、馬鹿かおまえは。おまえの自己満足で、何人が死んだと思っているんだ。

 だがディックが多くを巻き込んで殺したというのは、当然のことでもある。というのは、彼の作り出したこの幻想世界というのは、ある種のファンタジー空間だからだ。
 明らかな敵がいて、それが悪さをしている悪を取り除けば、光り輝く未来が待っている「はず」。そんな常識が通用する空間だ。悪は悪で、だから殺しても構わないし、自分たちは間違いなく正義なのだ、と(主人公だもんね)。

 周囲の人間たちも、ディックの幻想世界に完全に取り込まれてしまっている。仲間である「ダンディーズ」は勿論のこと、クララベルや、その友人(名前なんだっけ?)も例外ではない。
 連邦保安官は悪らしく振舞うし、銃を手にする警官たちは射撃命令がかかれば無意味にぶっ放す。悪だから、悪らしく振舞わないといけないのだ。少なくとも、ディックが見ている前では。
 そしてこの映画は、ほとんどがディックの主観で語られるので、物語から逸脱する行為をするものはほとんど存在しない。

 唯一(というか唯二)、例外的な存在なのは、ディックの幼馴染のセバスチャンと、ディックを間接的に見守っていたものの最終的には敵対することになる保安官だ。どちらもワンシーンずつだが、ディックが関与しない状況でシーンに登場することがある
 それらのシーンでセバスチャンは「おれは馬鹿だ」と洩らし保安官は「面倒なことになった」と呟く
 ふたりとも、現実を見ている。ディックの幻想に付き合うのは馬鹿らしいことだと思っている。
 だが保安官が現実的にディックに対応する一方で、セバスチャンは現実を見つつも、幼馴染であり、友人であるディックを助けるために、幻想の中に駆け出していき、彼の願いを叶えようとする。

 この違いの原因は、たぶんセバスチャンは、ディックのことが好きだったからだろうなんかすごいほもほもしい話題になってきたぞ)。

 子どもの頃、ディックはセバスチャンに本を贈った。後半20ページが抜け落ちた本を、「どうせセバスチャンは本なんか読まない」と言って。彼はセバスチャンを嫌っていた。
 成長してから、セバスチャンは言う。「本なんて読んだことねぇよ。一冊を除いてな。後半20ページがなかったけど」と。

 ディックはセバスチャンに嫉妬し、こんなことを言う。「きみは黒人だし、スマートだ」と。
 だがこの映画では、セバスチャンとクララベル、その友人の女性以外には黒人は、少なくとも主要人物としては出てこない(単にデンマーク製の映画だから黒人俳優が少なかったというのもあるのかもしれないが)。だから、むしろ羨ましかったのは、セバスチャンのほうではないだろうか。
 セバスチャンにとってみれば、ディックは数少ない白人の友だちだったのかもしれない。ほとんど会うこともないのに、プレゼントをくれた彼の存在が嬉しかったのかもしれない。

 セバスチャンは喧嘩が縺れて人を殺してしまい、保護観察処分になったところでディックのところにやってきた。物凄い勝手な予想なのだが、わたしはセバスチャンは祖母であるクララベルを守るために人殺しをしたのではないかと思っている。そう思えるだけ、セバスチャンは優しい。

 セバスチャンからすれば、この物語はどうだっただろう。
 ちっぽけな、か弱い、しかし優しい青年が箱庭の中で暮らしていたが、ふとしたきっかけで手にした強大な力を持って、他人を巻き込みながら破滅へ突き進んでいくさまを、横で見ていた。彼を変えようと努力はしたが、結局何もできなかった

 ディックが「死ぬならばきみ(ウェンディ)に撃たれて死にたい」と言っているのを見て、最後にディックがウェンディに撃たれて死ぬことを予想できた人は多いだろう。だがもっとも現実的であった(現実的な立場に立つことができた)セバスチャンが撃つことになることもまでは予想できなかったのではないかと思う。

 さて、この映画には3つの見方がある。
 ひとつはディックら主人公たちの立ち位置からの見方。これは上手くやれば面白いだろうが、たぶん難しい。共感できない。
 ひとつは警官ら、大人たちの現実的な立場をとる見方。これは非常に楽だ。作中で突っ込みを続ければいい。たまに警官たちがぶっ放しまくるが、まぁそこはご愛嬌で、警官に対しても突っ込みを入れておこう。たぶんこの立場でこの映画を見ると、つまらないことこの上ない(突っ込みを入れる楽しさはあるかもしれない)。
 そして最後のひとつは、セバスチャンの立場で見る見方。

 わたしは3つ目をお勧めする。

 ちなみに物語中盤でセバスチャンが大量の銃を仕入れてくるシーンがある。「あー、これは盗んできちゃったんだろうなぁ。まったくセバスチャンは」などとわたしは思っていたのだが、そんなことは全然なかった。疑ってごめん、セバスチャン。

 あと劇中でスーザンという仲間中で紅一点の人物が唐突におっぱいを見せるシーンがあって、このシーンを見たとき、「マカロニみたいだなぁ」と思いました。マカロニって、無駄なお色気多いよね。マカロニじゃないけど。

(『Dear Wendy ディア・ウェンディ』映画感想/レビュー)

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