To The Moonというタイトルを見てまず連想するのは、J. ヴェルヌの『月世界へ行く』だろうか。

To The Moon

Freebird (http://www.freebirdgames.com/)
日本語版: Playism (http://www.playism.jp/)


(*本レビューはPlayismにおけるTo the Moon日本語版のレビュー企画に参加して書いたもので、そのため内容は日本語β版のものです。
 →レビュー企画について(Playism): http://playism.blogspot.jp/2012/11/to-moon-1116.html)

 しかし『月世界へ行く』の内容を回想しようとしても、いまいち思い出せない。思い出せるのは、大砲に弾代わりに潜水球のような物を詰め、そこにおっさんたちが入って月へ行こうとする、というような大幅な粗筋だけである。今思うと暑苦しい内容だ。
 そういえばヴェルヌの他の作品、『海底二万マイル』だとか『十五少年漂流記』にしても大筋は思い出せるのだが、詳しい内容は覚えていない。『八十日間世界一周』は最後に執事が瓦斯の栓を閉め忘れていたというオチを述べるところまでも覚えているんだけどなぁ。ううむ、なぜだろう。

 だが実際にプレイしてみて連想したのは、むしろ宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だったので、その辺の疑問はもはやどうでも良くなった。

 星とは何か?
 本に書いてあることは本当だろうか?
 星空はどんな世界なのか?
 死んだら、一体何処へ行くというのだろうか?
 死するその前に、為すべきことはなんなのか?

 To The Moonで為される問いかけは、『銀河鉄道の夜』と共通性がある。

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こう)云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
(宮沢賢治 青空文庫『銀河鉄道の夜』 より)

 さて、To The Moon(以下、TTM)である。
 ご存知かどうかは知らないが、TTMはゲームである。2Dのアドヴェンチャー・ゲーム(ADV)だ。

老人ジョニーの「月へ行きたい」という願い。その熱意の根本を探るため、ニールとエヴァは記憶を遡る。過去へは少しずつしか進めない。最近の記憶から、記憶を繋ぐ大切な物、「メメント」を探しつつゆっくりと、ゆっくりと古い記憶に向かって進んでいなければならない。

 急に話が変わるようだが、わたしはアニメはほとんど全くと言って良いほど見ないのだが、つい先日見る機会があって(『Tiger&Bunny』である)それについて議論をする機会があった。
 個人的に気に入らない部分があって、ここはどうなのだ、と追求したら、アニメにそこまで追求するな、と返された。
 つまりアニメだったら、絵が動いているだけで満足すれば良いというのだ。筋書きや物語を求めるのなら、本を読め、と。言い換えれば、その媒体が秀でている部分を使え、ということだ。その媒体のらしさを追求しろ、と言い換えることができるかもしれない。
 言われてみれば、わたしはある種、そうした理論に賛同している部分がある。実際にアニメはほとんど見ることなく、他の媒体、特にゲームや小説、漫画に没頭する時間のほうが多いからだ。幾ら他の媒体で良作が有ると聞いたとて、違う媒体の作品にはほとんど手を出さない(ちなみにTiger&Bunnyを見たのは、作品中で実在の企業のスポンサー広告を出すのが非常に画期的だと思ったからである)。

 では、TTMは「ゲームらしさ」を追求できたのか?
 わたしはだと思う。

時折登場する兎のモチーフは、仏教的世界観における月像、すなわち「月の兎」の伝承に通じるものがある。また日本人の多くは身近すぎて気付いていないが、折り紙というのは日本の伝統文化であり、諸外国ではある種の芸術として受け入れられている。

「いいか・・・・マシム 俺の一番好きな話をしてやる 昔 一匹の心やさしい兎がいたんだ・・・・ 兎は人のためになりたいと思っていた そんな時 兎は腹ペコで野宿している旅人を見つけたんだ
 兎のヤツは困っちまった なにせサルみたいに木の実もとれねえし キツネみたいに獲物をとることもできねえんだからな
 そこでだ ハラを決めた兎は自分から焚き火の中にとびこんだのさ これで自分を食べて元気を出してくれってな
 !! なんだ!! かわいそうだって!? 心配すんなよ 最後まで聞けって
 実はよ その旅人ってな神様だったのさ スゲェ感動した神さまは 兎を空に連れていって 月の神殿に葬ったんだ
 だからよ 月には兎がいるのさ 俺はな スゲェイカしたそいつに会いに行くんだ」
(中略)
「よぉしマシム!! 帰ったらバッチリ話してやる!! いたぜ兎がな!! 話のとおり バカがつくぐらいお人よしの兎だ!! だがな そいつはスゲェタフなヤツだ・・・ 炎の中にとびこんだって 絶対に死にはしねえ!!」
(村枝賢一/石ノ森章太郎原作 講談社『仮面ライダーSPIRITS』第3巻 より)

 のっけから否定的な話であるが、このレビューがTo The Moonの全体の売り上げに影響するとは思えない。困るのはPlayismの企画担当者だけだ。ならば思うがままに書こう。

 そもそも「ゲームらしさ」とは何か?
 おそらくこうした問いは、追求していけば論文が何本も書けるほど大きな命題になりうるに違いない。が、多くの人間を納得させる回答はここでは求めていない。大事なのは、わたしが語りたいことを述べるための武器としての言葉だ。

 わたしは「遊んでいると感じるもの」がゲームだと思う。
 あまりに曖昧で、循環しているようなこの定義をより明確に述べれば「行為そのものに楽しみを感じること」である。結果ではなく、過程を求める。それがゲームだ。

 であれば、小説はゲームではない。本を捲ったり、文字を追ったりという行為そのものを求めているわけではない。
 勉強は何か達成すべき目標があるならゲームではないが、知ることそのものが楽しみなのだとすれば、ゲームだ
 子どもは親の真似をして家事の手伝いをしたがる。親にとっての家事は結果を求めているが、子どもは過程を楽しむだけだからだ。この場合はゲームだろう
 人生はゲームだ

 TTMは、行為を楽しむものではなかった
 キャラクタの行動は鈍重で、ダッシュすらなく、操作に関しては広く入り組んだマップでは踏破できない場所に阻まれて自由に身動きが取れなくなる。基本的にクリックして読み進めて行くだけであり、そこに介入していく面白さはないメモリーリンクの回収メメントの組み立てといったパズル要素が有るが、パズルをしたいのならば他にもっと面白い作品がある。TTMのパズルは、酷く退屈でつまらないとまでは言わないものの、喜んで受け入れられるものとはほど遠い。

いちいちパズル(メメント)解かないといけないのか。面倒くせぇ! でも先に進みたいから解いてやるぜ!

 もちろんゲームというのは障害をくぐり抜けることにより、達成感を得るような部分もある。障害というのは、ゲームにおいてはバネだ。それが大きければ大きいほど、乗り越えたときの楽しみは大きい。もっとも、きちんと乗り越えられる大きさであれば、という但し書きが必要であるが。

 無意識的な不協和低減のほかの例としては、「入会儀礼効果」というのも有名です(アソンソンとミルズ、一九五九年)。たとえば大学の部や同好会など何でもよいのですが、同好の士が自発的に集まる会では、入会のために審査やテストをやる場合があるでしょう。そのときに入会の条件やテストが厳しいほど、入ってからの活動内容が同じであっても、より面白く感じられるという効果です。
 この効果は、一般的な意味にとるとなかなか応用範囲が広いのです。たとえばクルマやオーディオ、スキーやサーフィンの道具、ブランドものの衣類などの値段についても、同じような効果が観察できます。庭石などの値段も同じかもしれません。こういう高級な嗜好品・贅沢品では、品質が同じならむしろ値段が高いほど、購入したときの満足感も高いという、一見奇妙なねじれ現象が生じます。
(下條信輔 中公公論新社『サブリミナル・マインド』 より)

 抑圧することで、それが昇華されるときに楽しみを引き出す。結果が同じであっても、その前に辛く苦しい経験があればあるほど、好意的な感触を抱きやすくなるのだ。たとえばロール・プレイング・ゲームやアクション・ゲームで強大なボス敵を倒した後、感じるのは達成感だけではなく、そのゲーム全体に対する不思議な楽しみだろう。

 この言い方では、まるである種のゲームの面白さがトリックであると言っているかのようである。
 しかし翻ってみれば、人間の世界観というものは錯誤や経験に基づく思い込みだらけである。そもそもからして目の当たりにする映像とは、網膜に入ってくる光刺激を経験的に画像化したものである。結果として作り出される映像が常に真実とは限らないのは、蜃気楼だとかを持ち出さずとも、鏡を見ればそれとわかる。
 そんな錯誤を偽物だと誹るのは、風景画を指して、画材を駆使してまるで風景の如く見せているだけで、本来は単なる絵の具の塊なのだ、と言っているに等しい。

プレイヤー・キャラクターであるニールとエヴァの目的は、死ぬ間際の人間の願いを擬似的に叶えてやることだ。だが死に触れ合っていながら、あるいはだからこそ、彼らが紡ぐ言葉は明るい。

 なるほど適度な面倒臭さは必要なのかもしれない、と頷けないでもない。
 だがわたしはいちいち操作せねばならない移動パートやパズルパートを省いたTTMが有れば、そちらのほうがより良い物であると感じるだろう。なぜなら、七面倒くさいゆったりとした移動をしている間そのものの時間が、楽しくないからだ。
 ゲームなら、大変な苦難であっても、それはそれで楽しい。大きな障害でも、その中に乗り越える楽しさがあるのだ。だがTTMにおいては、障害は話の先を見るためにいちいちこなさなくてはいけないという面倒さしか感じない

 では、ゲームとして世に送り出されたTTMが、ゲームとして面白くないというのは、駄目なことなのか?

 それは言えない。少なくとも、TTMをプレイした後ならば、「ゲームとして面白くないから、駄目な作品だ」とは思わないだろう。この作品には、心を打つだけのパワーがある。

 最初に述べた「その媒体のらしさを追求しろ」という哲学と相反する、こうした考えもできる。
 すなわち「良い物はどんな媒体だって良い」という考え方だ。優れた物語は、そのものが大きなパワーを持っているのだから、どんな形であれ面白いのだ


ドットで描かれる緻密な情景と心揺さぶられるシナリオ、そして美しいピアノ曲。
心と目頭を熱くせずにはいられない。

 わたしは初めに、TTMをプレイして『銀河鉄道の夜』を思い出したと書いた。
 なぜ思い出したかといえば、比較的直近の記憶だからである。
 勿論、子どもの頃に読んだという人は大勢いるだろう。学校の教科書に載っていたと言う人もいるかもしれない。が、わたしは最近見たのだ。プラネタリウムで、だ。KAGAYAの『銀河鉄道の夜 Fantasy Railroad in the Stars』である。

 プラネタリウムでの銀河鉄道の夜は素敵だった。綺麗で、燃えていて、三角標で、蠍で、鼬で………。
 色々な形で、言葉だとか、映像だとか、音楽だとか、そういったものが入れ替わり立ち代りで入ってきた。
 ぼろぼろと涙が零れさせたりはしなかった。けれども、プラネタリウムで、周りが暗くて、音を立てぬ静謐な空間で良かったと、本当にそう思った。



 プラネタリウム版の『銀河鉄道の夜』は、勿論そのままの『銀河鉄道の夜』ではない。多くのアレンジが加えられている。プラネタリウムであるという点をよく利用した、美しい作品だった。
 だが『銀河鉄道の夜』は『銀河鉄道の夜』だ。そして、やはりこの作品には媒体に拠らないパワーがあった。

 TTMも、同じだ素晴らしいパワーを持った物語だった。映像と言葉、そして音楽が融合した素晴らしい作品だった。心と胸とが熱くなった。

 広いマップだと突っ掛かったる。面倒くせぇ! でもちょこちょこクリックして先に進んでやるぜ!
 ダッシュもできないか。面倒くせぇ! でも続きが気になるからゆっくり歩いてやるぜ!

 TTMはゲームの形態を取った。
 マウスやカーソルによって移動をさせ、ゲームらしいクリックによるアイテム集めやパズル要素を組み込んだ。だが、それらは無くても良かった。無いほうが、良かった。
 ゲームでなくて、良かった。

 ではFreebirdがゲームの形でTTMを作り出したのは失敗だったのだろうか?
 小説や映画の形で世に送り出すべきだったのだろうか?

 いや、そうではない。
 TTMはゲームでなくて良かった。だがゲーム以外の形で世に出すべきだったかというと、そうとはいえない。なぜなら、ゲームは他の媒体には無い長所があるからだ。正確には、現行ゲームとされている媒体では、か。 

 たとえば映画は独りで撮るのは難しい
 小説なら独りでも書けるし、それほど熟練はいらない。しかし文章だけだ
 漫画は絵と文章のみだが、ひとりでも作り出せないこともないだろう。
 詩や俳句なら、物によっては受け取るほうも熟練を要するかもしれないし、幅広い表現をするには規制が多すぎる。もっとも作り出したいものがそれを満たすだけのものならば、他の追随を許さぬ美しさを表現できるのだろうが。

 さて、ゲームはどうだろう。
 たった一人で数多くのキャラクタを登場させることもできるし、文章のみならず映像や音楽表現も同時に扱える。現在であれば、開発を補助する様々なツールの存在のために開発も容易だ。こんなに素晴らしい媒体は他にない

 TTMはゲームでなくて良かった。だが、きっとゲーム以外でこの作品を世に送り出すことはできなかっただろう。
 でなくては、映像と、文章と、そして素晴らしい音楽と、あらゆる感覚器官を通して訴えかけることはできなかっただろう
 だから、ゲームという媒体でTTMが発売されたのは、きっと正解なのだ。
 
 そう、ゲームで良かった。
 だが、ゲームらしくある必要はなかったのだ。


ニールとエヴァが探るべきなのは「なぜ?」と「どうすれば?」だ。それさえ解れば、あと為すべきことは依頼人の熱意が月へと届くのを祈ることだけだ。

 大半であっても、全部じゃない。おあいにくさま、全部じゃないんだ。何百万人というおれたちの同志が、おれとおれの以外の何百万人が、星に憧れつづけている。が、そうでない連中のほうが今のところもっと大勢だ。というより、その中には、やはり星に憧れてはいるのだが、その憧れがおれたちほど強くなくて、どうせ自分が生きている間には実現できない、だから、そんなことに金を使うのはばからしい、と思っている連中もかなり多いのだ。
 一番いけないのは反動というか、保守派というか、まるっきり目先のものしか見えず、なんでもすぐ金になって返ってこないことは時間と労力の浪費だと思っているばかどもだ。
(フレドリック・ブラウン/田中誠二訳 早川書房 『天の光はすべて星』 より)

 かつてチュンソフト(現在はスパイク・チュンソフト)が「サウンドノベル」なるものを世に送り出した。『弟切草』『かまいたちの夜』などを代表作とする作品郡のジャンルであり、画面全体を文章のスクリーンとして利用したアドヴェンチャー・ゲームである。
 当時のサウンドノベルは「ノベル」といえるのは、この画面全体に文字を映し出す方式に関してのみであり、その他の進行や選択肢についてはまだまだ旧来のアドヴェンチャーの色が濃かった。

 それでも、これは「サウンドノベル」であると名乗った功績は大きい。
 それはつまり、新たなジャンルの創造だからだ。ゲームの媒体を借りながらも、ゲームではなくてよいジャンルを作り出したからだ。いうなれば、紙と筆を使っていながら、絵でも小説でもない、漫画というジャンルを生み出したようなものだ。

 ゲームならば、どうしてもゲームらしくしてしまう。それで蛇足的な部分が出来上がる。
 だがサウンドノベルと名乗れば、ゲームらしくなくて良い。

 それで良いのだ。ゲームでないなら、ゲームらしくなくて良いのだ。
 TTMもそうなるべきだった。ゲームの体裁を整えるべきではなかった。そうすれば、サウンドノベルともやはり異なる、ゲームと同じ方式を採用していながら、ゲームではないジャンルを創造できたかもしれない。

ヒロインのリヴァーという名は珍しいが、『ティファニーで朝食を』のMoon Riverから来ているのだろうか。でなければ、天の川か。英語圏ではMilky Wayだが、折り紙などが登場する本作では、月の兎と同様、日本などの東亜細亜文化からインスピレーションを得ているのかもしれない。

 新たなジャンルを開拓するためには力が要る。
 なぜなら、まさしく開拓だからだ。未踏破の地を切り開き、誰も知らない地平線を追い求める行為だからだ。

 だがTTMは、十分にその条件を満たしている。媒体を越えて、心に訴えかける力を持っている。
 なればこそ、ゲームと同じ作り方、同じハードでありながら、ゲームとは異なる新たな表現媒体となりうる可能性を秘めている。そんな力強さを持った物こそが、名作と呼ばれるのだろう。


Playism内の日本語版販売ページ: To the Moon (http://www.playism.jp/games/tothemoon/)

太字下線部は引用)

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